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キリストの聖体の神秘   2007年7月

 6月10日の日曜日、教会はキリストの聖体の神秘を記念して祝いました。キリストのご聖体の神秘とは 何でしょうか。ホスチア、聖別されたパンでしょうか。あるいはミサの聖別されたパンと葡萄酒を合わせてで しょうか。又は教会全体のことでしょうか。何に祝っているでしょうか。言いかえれば「インマヌエル=神はわ れらと共にいる」であるキリストの受肉の神秘とは何のことでしょうか、について、今月は共に考えたいので す。ご聖体主日の第二の朗読は次の通りです:聖パウロは言います:「わたしがあなたがたに伝えたことは、 わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささ げてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』 と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によってたてられる新しい契 約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、この パンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリ11章23−26) 先ず、頭に入れなければならないのは次のことです。即ち、聖書に描いている神様は抽象的な存在、哲学的な 概念、静止的、動かない、言葉で説明できるものではなく、非常に活発的、ダイナミック、生き生きしておられ、 いつも働いて動いている、人間の生活に関わり合っておられる神です。ヘブライ語では、「言葉」には、出来事、行い、業の意味も含まれています。即ち、ユダヤ人にとって言葉は単な る概念、理想、アイデア、響きだけではなく、目で見える、手で触れる、体験ができる、現実的なものです。神様 が「光あれ」とおっしゃれば光があった。何もかも「あれ」と言えばその通りになるのです。[創世記1章-2:4まで参考]。更に、聖書では信仰はあやふや、訳が解らないようなものではなく保証です。確実な体験に基づいているものです。 弟子たちが、キリストは復活したとの証人になられた理由は、その死に対する勝利が自分の中に働いていたから でした。そして信仰は道であり、長いプロセスです。アブラハムのように歩きながら学ぶものです。自分の歴史の 中で神様と出会い、神の存在の確実な体験です。信仰は理屈っぽい、哲学的な概念をとおして納得して認めるも のではなく、自分の生活の中に神の御手の業を見て、神と出会い、その事実を祝わずに、公に宣言せずにはいら れないことです。神との出会いがあれば人は変わります、動きます、旅立ちます。すべての疑いが追い払われる のです。復活したイエスと出会った弟子たちは疑いから確信へ移り、絶望から希望へ、そして大きな喜びが彼らの うちに湧いてきました。その意味では、我らが毎日曜日に祝っている感謝の祭儀(ユーカレスチヤ)は、正しく訳すれば「感謝」よりも「狂喜」、 狂っている喜びを意味するのです。そして宣言、褒め称え、賛美する気持ちも含まれているのです。即ち、私たちの ミサの基本的な精神は、感謝以上に神様を褒め称え、神の愛に対して爆発的な喜びを表す祭りです。その喜びの 源は何でしょうか、と言えば、神が私たちの為になさった救いの業のことであり、その数々の救いの業の中の最大な 技はイエス・キリストの存在なのです。そして旧約のイスラエルの使命は生きておられる神の「栄光を国々に現す」ためであったように、教会はキリストの体であり、彼が御父から受けた栄光を私たちに与え、周りの社会に神の栄光 を表す僕(しもべ)の使命です。だから、キリストが最後の晩餐に「私の時が来ました、御父のもとに渡っていく時、神の栄光に入る時。私が先に場所を準備しに行く。私がどう言おうか、父よこの杯を取り除くようにと。しかし私はこの時のために来た」(ヨハネ3:31など参考)と話されました。新約聖書では、復活したイエスが現れた場面の多くは食事の時でした。そしてパンを裂いた 瞬間に、弟子たちがキリストは本当に生きていると悟り、大喜びに入り、神の救いの業を賛美し、述べ伝え祝いました。ごミサの精神を表す最高の例は、ルカの福音で「マリヤの賛歌です」。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である 神によって喜び踊っています。身分の低い、この主のはした目にも目をとめてくださったからです。今から後の世の人 は私を幸いな人というでしょう。力がある主は私に偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く。」[ルカ1章46から参考]キリストが最後の晩餐になさった技、パンを裂き、弟子にあたえ、杯を取って回す、足を洗うなどの行動を理解するた めには、ユダヤ教の過越祭を理解しなければなりません。その祭りとは、エジプトを脱出した夜に、小羊を屠ってその 血を家のかまどに塗り、それによって死の天使から救われ、新しい生命への道が開かれた記念に神に感謝して奉げる ものでした。奴隷から自由な身分へ、希望がない生活から希望に満ちた生活へ、硬い味がないパンの生活から蜜と 牛乳に富んでいる生活への記念の祝いでした。モーセが「年毎にこの祭りを脱出の記念としなさい。」と命じた通りに キリストは、「今からは私があなた方の為に渡された体、流された血である、永遠の契約として行ないなさい」と命じた 即ち、私たちが日曜日毎に祝っている神秘は、主キリストの死に対する勝利です。私たちの罪の為に、私たちが受けるべき死の災いを、彼がご自分の身に受け留め、自分の血が私たちを救うために流しすべてのことを神に委ね、死に至るまで、私たちを愛して神を信頼する道を開きました。私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさいとの道、プロセスです。教会はキリストの復活の勝利の霊、力、息吹を受けて、罪の許しをあたえられ、すべての人にそれをもたらす使者となる 使命を受けています。どんな目に合っても、どんな辛いことがあっても、キリストにある神の愛から離すものはないとの 確信の霊、力の体験です。ご聖体の神秘はキリストの復活した命が今の我らの内に宿られる、インマヌエルである神の神秘を示します。キリストは、ホスチアの中にも、あるいはミサの聖別されたパンと葡萄酒の中にも、又は教会全体の中にも居られます。そして、神の愛の力が、この暗闇に満ちている世の中にその栄光を表す道具として、この世の中に起こされているのです。死は滅びの道ではなく、永遠の生命への唯一の道です。毎日の生活で、キリストと共に死に、彼と共に復活する体 験をしてその事実を宣言され、祝われる神秘です。日曜日のミサではじまり、毎日の生活において実現される祝いなの です。「私の記念として行ないなさい」と。

主任司祭 ハーン・フランシス神父

 


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