伊丹教会黙想会 第1講話

 テーマ福音宣言
お 話 :晴 佐 久 昌 英 神父
 (ハ レ サ ク マ サ ヒ デ )

 

キリストの宣言[ 祈りと導入 ]

お祈りを致します。「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。慈しみ深い天の父よ、
今日私たちをここに集めてくださったこと、
心より感謝致します。今日私たちがここにいるのは、天の父のみ心によるものです。
ひとりひとりの神の子を、真の親である天の父が、こうしてここに集めてくださいました。
ひとりひとりを救うため、励ますため、
祝福してご自分の愛を示すため。この1日をどうかあなたのみ旨のままに、祝福の1日としてください。私たちひとりひとりが今日あなたの愛に触れて、大きな喜びに満たされますように。私たちの主イエス・キリストによって、アーメン。
父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。」

初めましてという方がほとんどでしょうかね。
あの、先程迎えに来てくださった車の中で
ある青年が、「いや、もっとおじいちゃんかと思った。」って言ってました。(笑)
どういう訳か、どこでもそう言われるんですよ。「おじいちゃんかと思った。」って。
書いていることは、説教集なんかでも、マドンナのコンサートに行ったとかそんなことを書いているんで、あんまりおじいちゃんぽくないと思うんですけれども。多分、私の一番の特徴は、自分を通して神様が働くというそういう信仰なので、・・・。
今日このひとりのごくごく普通の風采の上がらない中年男性、ま、おじいちゃんといえば、最近だんだん老眼も進んでですね、少しずつあちこちに衰えがきているなというのが、
まあ、皆さんもそうでしょうけれど、わかるような日々なんですけれど、この今の自分の現実を通して、今の年齢、今の才能、今の出会い、今のこの自分のちょっと辛い思いをしているとか、凄くいいことがあったとか、全ての現実を通して、神様が働いておられるということを、全面的に信じている。それが、私の特徴だと思います。
良いところ、悪いところ、全部です。だって神様が私をお創りになったわけですから、
そんな自分を通して神様が今日も何か素晴らしいことをしてくださる、
そう信じてここに参りました。
いい時間を過ごしましょう。こうしてゆったりと神さまのみ前で、み言葉に耳を傾け、
神様の業(わざ)に思いを馳せて、自分がここに今いることは素晴らしいと思えるような、そんなひと時をご一緒に過ごします。いつもそうなんですけれど、後々になってから、
「ああ、あれは本当に恵みのひと時だった。」そう気づくっていうことをよく言われます。今日のこの午前と午後の話とそのあとの感謝のミサ、それを自分の生涯でも本当に大切な、神様に直接触れるような恵みの時であったと、後々思い起こせるように、
心を開いて、ご一緒にこのひと時を過ごしたいと思います。

 


 

[ 空からの景色と空からの想い ]


天を仰ぐイエスここに来るまでの間に、ふと思ったことなどをちょっとお話しして、最初の話の始めにしたいんですけれども、
飛行機に乗ってきたんですよ。伊丹空港初めてなんで。
凄いですね、低い所を飛んで、ちょっとびっくりしました。なんか、ビルに羽が引っ掛かるんじゃないか、なんて心配するような。子供たちがね、学校の校庭でこうやって、
飛行機見上げている姿とかが、すぐそこに見えました。
今日見晴らしが良くって、飛行機から下眺めながら来たんですけれど、新幹線が走っていたりね、富士山が奇麗にね、
輝いていたり、そうして、町が見える。家々があるわけでしょ。私、飛行機から下、眺めるの好きなんですけれど、
今日は本当に今までにないくらい、ちょっと感動しました。
良く見えたせいもあるんですけれど、晴れていて、
家々がいっぱいあってね、ふと、神様のこと思った。
私がこう上から見ているわけですよね。
町々には大勢の人が生きている。泣いたり笑ったり、
おそらくどこの家にもね、鬱で苦しんでいる人とかいるはずですよ。親しい人亡くして、悲しんでいる人もいるはずですよ。
自分を受け入れられずに傷ついているとか。
許せないあのひとのことで心がいっぱいとか。職を失いました。
受験に失敗しました。恋人に振られました。いろんな思いの人が、どの家にもみんないて、心閉じて、塞いで、何も考えられずに、布団かぶっている人もいるかもしれない。
でもその家々をこうして上から眺めている私がいるわけですよ。
誰もそんなこと知りませんよ。今飛行機の上で神父が、俺をじっと見ているだろうな、
なんて、絶対思わないと思う。

 

[ 神様はすべて見ておられる ]

地球とイエス様神様のことふと思った。神様は全てご存知ですよね。全ての人がわが子ですよね。ちょうどこう、
お母さんが赤ちゃんの様子をずっと見守るように、赤ちゃんはそんなこと知りませんよ。
知らないけれどお母さんは見守ってる。
見守らないお母さんなんかお母さんじゃないわけですよね。神様は究極の親なんだから、
我々は本当に神の子なんだから。
だって自分で望んで生まれてきたわけじゃないでしょ。神が望んだから生まれてきたわけですよね、
私たち。だから神から望まれて存在している私たちは、神から見守られているんですよ。
生まれる前から。聖書的な言い方するなら、
天地創造の始めからですよ。
もう私は用意されていたし、そして神の御心のままに私は昭和32年10月22日に生まれました。イチローと誕生日一緒なんです。
どうでもいいですけどね。(笑)誇りなんです。(笑)大好きですからね、彼のこと。
その日、オギャーと私は産まれた、それを私の両親も見守ったでしょうし、
お医者様も見てたかも知れないけれど、誰よりも神が見守っていたわけですよね。
以来何万日になるんでしょうね。神様が私を見過ごしたっていう日は1日もないはず。
寝てる時だって、悩んでる時だって、怒ってる時だって、泣いてる時だって、神がずっとずっと本当に身近に見守り続けてきた。その神の眼差しのことを空の上からふと思いました。
そのことをふと思ったら、とても感動したんですよ。
だってどの家にもいろんな人がいるわけでしょ。でもいろんな人がいるんだけれど、
それら全てを神様がちゃんと見守っていてくださってる。
問題はそのことに私たちが気付くかどうか。今も天の父がこの私を見守ってくださってる。知っていてくださる。よく皆さん、自分のことは誰もわかってくれないとか、
誤解されて傷ついたとか、この世で独りぼっちみたいな気持ちとか。
あるいは愛されたいがために、ちょっとバランスの悪い変なこといっぱいしたりとか、
してますけれども、もし本当に何よりも誰よりもこの私を愛しておられる方が、
確かに私を見守るそのまなざしを感じたら、ずいぶん人生違ってくるんじゃないか。
この眼下に見えるたくさんの家にいる人たちも皆変わってくるんじゃないか。
もしも私が神なら、そんな思いを家々の全ての人に、ちゃんと伝えたい。
「私がいるよ、ちゃんと見守っているよ、君はひとりじゃないよ。大丈夫だよ。
必ずお前を救う。」そういう思いをね、この家々のひとりひとりにちゃんと伝えたいんじゃないか、伝えたいからって飛行機から叫ぶわけにはいかないでしょ。
イエス・キリストの意味っていうのが、そこにおいてすごくこうリアルに感じられませんか。空からね、大きなスピーカーで「お前を愛しているぞ。」って叫んだところでですね、
耳鳴りかなにか、誰も喜んでくれない。でも、神様がこの世界に現実に一人の人間として生まれて来て、ひとりひとりの所を訪れて、「神は愛である。あなたは愛されている。
あなたの存在は本当に尊い。かけがえのない神の子だ。怖れるな。
その神の愛を受け入れなさい。あなたのその信仰があなたを救う。」そう言ってね、
一軒一軒まわっていくような存在ですよ。イエス・キリストの想いって言うのは、
まさに神がどうしても言いたいことを、イエス・キリストが言ってまわったと。
このイメージが大事。実は神様が本当に私たちひとりひとりに言いたいこと。
それをここに集まっているような人はちゃんと聞いているんですよね。
もうすでに神は私に語りかけてくださったし、そのひと言によって私たちは生きる者となったし、これからも生きていける。


 

[ 信じなければ生きていけません。 ]


羊飼い今、多摩教会で洗礼の準備をしております。多摩教会は、この教会とほとんど変わらない規模の教会ですけど、ま、今年はですね、洗礼志願者が今年はたったの32人しかいないんですよ。こういう言い方する時がね、ちょっと誇らしげでしょ。たったの32人しかいないんですよ。来年はね、もっと大勢にね洗礼を授けたいと、着々準備しているところですけれど、32人目が昨日決まったんです。つい昨日の出来事ですけど、洗礼の準備、洗礼志願者。もうとっくにね、洗礼志願書提出締切日は過ぎていて、普通だったら「来年にしましょう。」っていう話なんですけど、ご病気なんですよ。で、まあ、これは神様がお決めになることだから、はっきりしたこととして言うのはおかしいけれど、普通に人間的に言うならば、来年の復活祭なんて、とてもとても間に合わないというような重いご病気です。治療する方法もないので、今しばらくの間自宅に帰っていて、「再来週の復活祭にどうしても洗礼を受けたい。」とおっしゃる。まあ、ご家族も信者さんですし、その意味ではご家族が信者であるならば、そんなにね、複雑な勉強したり、大変な修業したりしなくても、神様から特別に選ばれている方だって思って、それでなくても、ご病気だということもあるし、申し出てこられたので、昨日面接を致しました。こ1時間の面接で、私はこの人に今年洗礼を授けるかどうか、それを判断するわけですけれども、一番肝心要(かんじんかなめ)のここだけを信じててくれればね、もうそれでOKということをお話ししました。
「神があなたを産んだ。神があなたをお召しになる。神があなたに洗礼を授ける。それをあなたは信じますか。」要するに普通は洗礼っていうと、自分でね、求めて、自分でね、学んで、自分で決心して、自分が受け入れて、そして自分が受けるもの。洗礼を受けるって言うじゃないですか。主語が私なんですよ。「私が求めました。」「私が学びました。」「私は理解しました。」「私は信じました。」「私は洗礼を受けます。」でも、洗礼というような出来事は、この世に誕生するとか、天に召されるというようなことと同じで、神様の業(わざ)なんです。洗礼の主語は神ですよ。神があなたを選び、神があなたにご自分を示し、神があなたを導いて育て、神があなたに信仰を与え、神があなたに洗礼を授けてくださる。その意味では、あなた自身がたとえどのような人であっても、どのような条件であっても、無条件に神様があなたを愛して、選んで、今永遠の命を実現してくださる。その洗礼の恵みを注いてくださる。そのことを信じますか。私はその方にそう聞きました。あなたがどれだけ理解していなかったとしても、「私の信仰なんかで洗礼はふさわしいだろうか。」なんて思って、迷ったとしても、そういうことは関係ないんです。あなたを選んだ神様、その愛、神様のなさるその業(わざ)。それは完全であって、我々の不完全な努力とか、理解とかをはるかに超えている。
何でそういうことを私が強調したかというと、その方はもう自分の病気のことをよく知っていて、あともう本当にわずかな日々しか残されていないということをよく知っていて、もうすぐ決定的な時を迎えるわけです。その時に自分の努力だとか、そういうものが、何の役にも立たなくなる。完全に、無力になる。その時に神の愛が、完全なる神の業(わざ)が、私を救うんだという信仰が、その人を救うから、洗礼というのはまさにそのような一番弱い時、一番辛い時に、全く無力である時に、輝きを放つものであるから、そのことだけをこの人には信じてもらいたい、そう思ってお話をしました。

「あなたが洗礼を受けるのではありません。神が洗礼を授けるのです。そのことをあなたは信じますか。」って私がきいたら、忘れもしませんよ。あの応接室に花が飾ってあってね、彼もう60代に入ろうとするくらいの男性です。私の話をじっと睨むように聴いていたこの方が、私が最後にそういう今のような話をして、私が
「信じますか。」って言ったら、
信じなければ生きていけません。」って言ったんですよ。
私感動して思わず目頭、熱くなりました。「信じなければ生きていけません。」「わかりました。あなたに洗礼を授けることを許可致します。」って。そのあと、洗礼志願書にサインしてね。「信じなければ生きていけません。」美しい言葉だなあと思った。ま、昨日の出来事ですからね、多摩教会32人目のね、受洗者。もう増えないで欲しいですね。準備が大変なんです。けっこう丁寧に洗礼式準備しますから。でもそれってみんな同じですよね。みんななんかこうまだ余裕があるから、「信じなければ生きていけません。」なんていう美しいひと言になかなか行き当たりませんけれど。皆さんあと1月とか、そんな時になったら、まさしく自分の無力さ、人間的に言えば、無意味さみたいなことをはるかに超えた、豊かな神の愛の業(わざ)、永遠なる命への誕生、今日を生きるっていうのは、そういうことを信じるしかなくなるはずですよね。でもそれでいいのなら、皆同じはずなんですよ。あと1月と、あと10年と、あと50年と、どこが違うんだろって話です。完全に無力である時、神様の恩寵が働き出す。

 


 

[ ヨハネ福音書8章1−11節から姦通の女 ]


マグダラのマリア1昨日の福音書覚えてますでしょ。姦通の女が姦通の現場から引きずり出されてきた。「こういう女は石で打ち殺せとモーゼは命じています。」そんなことを叫んで、目がつり上がった人たちに囲まれている。まあその女性の気持ち想像してみてください。聖書はたった1行ね、『姦通の現場で捕えられた女が連れてこられて、』としか書いてないですけれど、現実にあった話ですから、どういう事情でそういうことになっていたんだか、リアルに考えてみてくださいよ。ひとりの女性としての、孤独だか、とらわれだか、苦しみだか、あるいは、こう自分を貶(おとし)める罪の傷だとか、人から愛されたい究極の弱さだとか、本当にそれを抱えているひとりの人間なわけでしょ。それが現場でですよ、捕えられて、着の身着のままじゃないですか。目がつり上がった人たちに連れてこられて「石で打ち殺せ。」とまで言われているわけでしょ。その恐怖、後悔。そんな自分をこう呪うような気持ち、もしかしたらその相手がとても愛する人だったらね、その愛する人ともう二度と会えないんじゃないかというような悲しみとか。ありとあらゆるその人の絶体絶命の現実があるわけでしょ。皆さんもそういう体験ありますか。もう終わりだというような、失恋して絶望しただとか、大切な人を失って、もう生きていても意味がないだとか、そんな絶望的状況を体験した人だったら、ちょっとは想像できるでしょ、この姦通の女の思いを。震えあがって、もう万事窮す。完全に無力っていう状態で、何一つ出来ない。そんな状況でですよ。そこの時、イエスが
「罪のない者から石を投げろ。」と言ったわけでしょう。
で、みんなが去って行ったあとで、イエスが言いますよね。
「みんなどこ行ったの。あなたを罪に定めなかったのか。」
「はい、主よ。誰も。」そしてイエスは言う。
「私はあなたを罪に定めない。」
おそらくこの女性が生まれて初めて聞いた福音です。神の言葉です。完全なる神様の愛が、今この私に語りかけた。そういう体験。そのひと言を聞くために生まれてきたというひと言。このひと言があれば、これから生きていけるというひと言。「私はあなたを罪に定めない。」「私はあなたを受け入れる。」そういうことですよね。神はあなたを、あなたの全てを完全に受け入れている。ま、そのあとで「もう罪を犯さないように。」と言ってますけれど、それはもう姦通するなというような話じゃないと思うんですよ。このイエスのひと言を聞くまでの闇を生きていた、別の言い方をすれば神から離れていた、その人生から今、「私はあなたを罪に定めない。」という宣言を受けて、全く新しい段階に入った、そのあなたは「もう二度と前の闇に戻るなよ。」とそう言っているんですよ。ヨハネ福音書で、「罪」と出てきたら、神から離れている状態のことです。うらやましいというか、イエス様の口を通して、神様の愛のひと言をはっきりと、一番無力である時に耳にすることができた、うらやましいというべきでしょう。だけど、それで言うんだったら、私たちみんなもうそれを聞いた存在なんですよね。

 

[ 黙想会は神様からの呼びかけのひと時 ]

マグダラのマリア2洗礼を受けた、あるいはこうして黙想会に集まっている。そういう人たちはあらゆる闇から、もう引っ張り出されて、「私はあなたを愛している。あなたを罪に定めない。」そういう宣言を受けた者なんです。そういうこの新しい段階に既に入れられた者だという誇りをね、今日は本当に取り戻してもらいたい。神に選ばれて洗礼を受けた。信じなければ生きていけませんという想いで、今ここに座っているんだという、その神様の業(わざ)を本当に信じて、忘れかけているなら取り戻してもらいたい。洗礼を受けたって、すごいことなんですよ。ここにみんな受けていない方、いないですもんね。普通の講演会なんかだと、けっこう洗礼受けてない方も大勢聞きに来てるんですけれど、いいですね、こういう小教区の黙想会は。でも、中には、洗礼を受けていらっしゃらないという方もおられるのかな。まだ洗礼を受けていないって方おられますか。いらっしゃいます。全員信者なんですか。あの、ここでコマーシャルですけど、是非洗礼を受けましょうね。こういう黙想会、神様からの呼びかけのひと時ですよ。洗礼を受けている人には、本当に神様から直接愛を語りかけようとするようなひと時なんです。昨日の福音書でいえば、姦通の女が聞いたひと言を、ぜひこの黙想会で今日私は現実に聴いているという、その感覚を大事にしてください。信仰というのは、考えたり理解したりすることよりも、やっぱり感じること、受け入れること。この黙想会もそういう体験です。午後にミサをしますけれども、本当にミサはその極みですよね。神が直接私たちに触れてくださるその極み。ですからこの2つの講話自体がミサの準備をしているようなものなんですよ。あそこで本当に直接神様に触れていただくために、神が私に語りかけてくださる。一番弱い状況で、一番無力な私に、語りかけてくださる。「私はあなたを罪に定めない。」そのような神のみ言葉がなければ、私は生きていくことができません。それがやっぱり信仰のいろはの「い」のところなんですよね。

 


 

[ 福音宣言とは ]

福音皆さんは、いろいろなところで、いろいろな福音を聞いてきたと思うんですけれど、どの福音も神様が皆さんにどうしても語りたくて、直接語った福音なんです。聖書を通して読んだ言葉でも、キリスト者から聞いた言葉でも、神父様のお説教でも、時には、信者じゃない誰かの何気ないひと言であっても、神様はあらゆる形で私たちに語りかけている。なんとか、「私はあなたを愛している。私はあなたを罪に定めない。」そういう福音を語りたい。この熱い神様の親心。その思いを私は福音宣言という言葉で、キーワードとしてお話ししてそれを本に書いたものが、この度の「福音宣言」なんです。福音っていうのはもう言うまでもなく、神の言葉ですよ。愛の言葉、みんなを救う恵みの言葉を福音というわけです。とりわけ、イエス・キリストを通して語られた、イエス・キリストの十字架と復活によって、あらわされた神様のみ言葉。その福音は単なるこの世の言葉ではなくて、親が子供を愛しているよと言うかのような、一方的で、圧倒的で、決して誰も消すことのできない、完全なる言葉。その特徴を宣言というキーワードでお話ししている。神様の愛の言葉が一方的に全ての人に宣言されて、その宣言を受けて、私たちは生きる者となる。
皆さんも言葉に何種類かあるの体験しますでしょ。要するに何気ない対話から、とっても忘れられない大切な誰かから言われたひと言、までやっぱり差があるじゃないですか。で、誰かから言われた大切なひと言って、これ宣言なんですよね。親が子供に、いつもだったら、いい加減な言葉ばっかり語り合っているんだけれども、例えば子供がいじめにあって辛い思いしている時、お母さんが、「あなたは私の子供なんだから私がちゃんと守ってあげる、心配しないで。大丈夫。」なんてひと言言う。で、子供が安心する。これ、宣言なんですよ。この宣言は決して一度口から出したら、撤回することができない。そういう迫力、そういう真実を秘めている。そして、その宣言は聞いた者を変えていくし、聞いた者の中で本当に力になっていく。荒れていた生徒に先生が「俺はぞ。」なんてひと言言う。そうすると生徒がそんな言葉は、生まれて初めて聞いているわけですよ。「俺はお前を信じる。」と先生からそんなこと言われて、今まで、なんだか「自分なんかどうせ、誰も信じてくれないんだ。」と思って荒れていた生徒が、生まれ変わったように新しい自分を生き始める。現実にある話ですよ、いくらでも。その時先生は、その生徒に宣言しているんですよ。「私はあなたを信じます。」と。こういう言葉はとっても力がある。恋人とか、夫婦とかっていうのは、まさにそうでしょ。「結婚してください。」「はい、お引き受けいたします。」それはまさに宣言が完成するひと時で、そのひと言はもう口にしたからには撤回できないし、自分の言ったことには責任がある。「お父さんはお前を守るぞ。」と言ったからには、お父さんは子供を守る。「生涯あなたに愛と忠実を尽くすことを誓います。」って宣言したら、それは生涯消すことが出来ない。そういう宣言という言葉で、人と人はつながっているし、この世界は生かされている。支えられている。であるならばですよ、最も根本的な神のみ言葉が、宇宙の始めから存在して、そして皆さんを生かすために、きちんと皆さんの耳に届く、皆さんの心に理解できる言葉で宣言される。これは一番大事なことになるじゃないですか。

 

[ 神からのひと言「お前を愛している」 ]

マグダラのマリア3考えてみたら、生まれて来て親から愛されたいがゆえに生きていてるようなとこ、ありますよね、小さい頃は。良い子にして褒められたいとか、親の注目引こうと思って大きな声で泣いたりとか。人間ってそうして愛されたいからいろんなことし始めるわけでしょ。それをずっと引きずっているわけだし、いくつになってもね。だから親は小さい頃に、「よしよしよしよし、大丈夫だよ。いい子いい子いい子、愛しているよ、かわいいね、かわいいね、」って宣言し続けることで、子供はだんだん自分になっていく。世界が信じられるようになっていく。このプロセスを思うとき、究極的には私たちは神様からのひと言を聞くために生まれてきたっていう風に、そう思ったらいいと思う。だって、そうはいってもこの世の親は、不完全ですから、一番いて欲しい時にいてくれなかったり、一番言って欲しいひと言言ってくれなかったり、いやそんなんだったらまだましだ。もう生まれた時には親がいませんでしたとか、中には、虐待されましたとか、そういうことだってあるわけですから、そういう意味では私はついに、この世で本当に自分が聞くべき宣言、すなわち「お前を愛しているよ。」とか「無条件にお前を大切にするよ。」っていうような宣言を聞けないかもしれないじゃないですか。あるいは聞いたつもりでいても、この世の宣言は不完全なので、いつも私たちは物足りない。そうやって飢え渇いているじゃないですか。だから、私たちはこの世に生まれてきたからには、この短い人生の中で、必ず一度は神からの「お前を愛しているよ。」を聞く必要があるわけです。聞かなけりゃならない。これを聞くために生きてきた。それを聞けば生きていける。姦通の女だったら、あの瞬間聞けたわけです。「私はあなたを罪に定めない。行きなさい。」一説によると、これがマグダラのマリアだったとか、そんな説もあるくらいですから、このあとこの姦通の女は闇から救われて聖女にまでなった。不思議はないと思う。ついに聞けたのだから。聞くべきひと言を。0コンマ5秒ですよ。今までの何十年の人生の中で、聞けなかったひと言。「私はあなたを罪に定めない。」それを彼女は神のひと言だとわかったはずだし、それによって、全く新たにされた。

 

[ イザヤ書43章16−21節 ]

昨日の第一朗読はイザヤの預言でしたけれど、「見よ、私は新しいことを行う。」っていう一節がありましたよね。その新しさですよ。ちょうどこの世にオギャーと生まれてきた、全く新しい段階でしょ。でもそれでは、まだ足んない。「あなたを罪に定めない。」って聞いた瞬間に、オギャーとついに神の手から生まれたわけです。全く新しい段階に。やがては神様の世界に、神に召されてオギャーと死を超えて生まれていくわけですけれども。福音宣言を受ける瞬間というのは、この世にオギャーと生まれてきた誕生の完成であり、神様の世界にオギャーと生まれ出ていく究極の誕生の先取りなんです。生まれて、生まれて、生まれていく。我々は死ぬために生きてるんじゃないですよ。まだちゃんと生まれてもいないんです。洗礼はこの世に生まれてきたことの完成であり、天の国に生まれていくことの先取りなんです。姦通の女にとっては、福音宣言を受けた瞬間が洗礼式だったんでしょ。オギャーと生まれる。このひと言、0.5秒でもいい。そのひと言を聞くか聞けないか。イエスが方々の町や村に行って福音を語り続けたっていう訳がわかりますでしょ。
ひとりでも多く、一刻でも早く、みん
なに、この神の愛の福音をどうしても伝えたい、それはその人の魂の生き死にかかわることだから、この世の命の生き死にかかわることは、大事は大事だけれども、いずれは神に召されるわけですから、究極の価値ではないですよね。

 


 

[ 使徒パウロのフィリピの教会への手紙3章8−14節 ]

イエスと子ども昨日の第二朗読ではパウロも言ってましたでしょ。私はイエス・キリストの福音に出会ったからには、それが何よりも大切のものになる。だから、その他のことは、全部私は損失とみなす。他のことは塵芥(ちりあくた)にすぎません。昨日読んだところですよね。このひと言がどれほど価値があって大切なものか。皆さんが、洗礼を受けた時、新たに生まれたんですよ。それまでも、福音をずっと聞いてきて、望みの洗礼のように生まれ始めていたでしょうけれども、ついに秘跡として洗礼を受けた時、「天地の創造主、全能の神である父を信じますか。」と聞かれて、この自分を望んで産んだ方を「信じます。」と答えた時、「神のひとり子、乙女マリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエスを信じますか。」と尋ねられて、その神の宣言をこの私に語ってくれたイエス・キリストを「信じます。」と答えた。「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体の復活、永遠の命を信じますか。」と聞かれた時、その福音宣言を教会によって受けて、今それを信じて、あなたを罪に定めないという罪の許しを信じ、「永遠の命である天の国に私も生まれていくんですと信じます。」と答えた。まさに洗礼式は、その福音宣言を受けて、「アーメン」と答えた、人生で最も尊い瞬間だったんです。思い起こしてください。その洗礼の時を。神様の創造の業(わざ)が実現した瞬間。

 

[ 人生最高のできごと、洗礼]
 私、入門講座で先週も、洗礼志願者たちに言ったんですよ。「いよいよだね。」と。
あなた達がやがて死んで、天の国に生まれていって、天の国でわが人生を振り返って、神様から、「いい人生だったか。」と聞かれて、「有難うございます。素晴らしい人生でした。」と答え、それでは、あなたの人生の中で、素晴らしいことはたくさんあっただろうけれども、今年の10大ニュースみたいに、わが人生10大ニュースを書いてくれって紙を渡されたら、何を書きますか。皆さん方はどうしますか。結婚とか、宝くじにあたったとか、何か知らないけれど、いろいろ書くかも知れない。私が先週洗礼志願者に申し上げたのは、10大ニュースはいろいろあったかもしれない。しかし、2番目以下はどうでもいい。トップに受洗と書いてください。そう申し上げた。あとは、まあどうでもいいです。入信の秘跡、「洗礼」と「聖体」。神の福音を聞いてアーメンと答えて、その神の愛を信じたならば、他のものは塵芥(ちりあくた)にすぎない。そんな信仰を神様からいただいて、現実にその秘跡を受けた受洗。それは皆さんが誕生してから、やがて訪れる死の間までの最高の出来事です。
洗礼式 神は宇宙創造の始めから、福音を宣言しています。創世記には「光在れ。」って宣言しているでしょ。神が宣言すると本当に光があるわけですよ。ビックバンがオンとなった瞬間。科学はそれをいろいろ説明するけれども、どんな科学の説明より美しい言葉。
「神は仰せになった。『光在れ。』こうして光があった。」 たった1行ですよ。創世記1章3節ですかね。神の宣言でこの宇宙が出来上がっているんです。皆さんもそうなんですよ。「晴佐久昌英在れ。」って言うから私がある。私の細胞の一つ一つ、遺伝子の一つ一つに至るまで、神が「在れ!」って言ったから在る。何も怖れる必要がない。神が命じたことは完全です。神の宣言は実現します。大天使ガブリエルは聖母マリアに言いました。「神にお出来にならないことは何一つない。」この宇宙を作り、地球を丸め、人類を進化させ、晴佐久昌英を昭和32年10月22日にオギャーと生まれさせた。以来52年、命を永らえて、今日3月22日ここに立っている。現実でしょ。これリアルですよ。幻でも何でもない。神がお命じになっている。神様がなさっておられるその業(わざ)、私は神の宣言によって存在している。宇宙の根本もそうだし、私の存在の根本もそうだし、そのことを私はイエス・キリストの宣言によって信じて、永遠の命を生きる者となった。これが「洗礼」なんですよ。

 

[ ミサの価値]
 今日の午後行われるミサは、私はいつも思うんだけれども、これは再洗礼だねって思うんですよ。再びの洗礼。もちろん洗礼は一度ですからね。2度と授けませんよ。授けませんけれども、ある意味では、あの洗礼、聖体、入信の秘跡がずっと今でも続いているようなものだ。秘跡は1つですからね。パンも一つ。人生における最高の出来事。神様の宣言を受けてそれを信じて「はい」と答えた。そのことを今日の午後のミサでちゃんともう一度、受け入れて、信じて、奉げようじゃないですか。ミサの良い準備をして。もちろん、毎週毎週皆さん、ここでごミサに与っているでしょうけれど、今日のこの黙想会でそんな風に思いを新たにして与るなら、これからの主日のミサは、いつもいつも、またもう一度、この再洗礼のような主日のミサに与ることができます。これがもう生涯最後のミサかも知れない、それくらい思って、大切に大切に与っていただきたい。神様から福音宣言を受ける、そのような出来事として。僕らは愛されたい、愛されたいって思っているけれども、ミサの時に本当に神様から愛されているんだということを味わってくださいね。じゃないと神様もせっかくミサを準備したのに、それをちゃんと食べてくれないと、こんなもったいないことはない。神様にしてみたら、こんな残念なことはないっていうことじゃないですか。

 


 

[ 主語は神]
放蕩息子いつか福音宣教っていう雑誌に、「ミサは地球を救う。」っていう原稿を書いたことがあって、サブタイトルに「父の抱擁、母の授乳」っていうサブタイトルつけて、2つに分けて書いたんですよ。ミサは父が抱擁してくださる。あるいはミサは、母が授乳で、お乳を与えてくださる。
さっきの言い方でいうと、主語が私じゃないんですよ。私がミサに与るとか、私がミサに行くとか、私がミサを捧げるとか、ま、そういう要素がないとは言わないけれど、圧倒的に神が私を抱きしめてくださる。神が私にご自分の愛を食べさせてくださる。神が私をご自分の命に入れてくださる。「主語が神」これ覚えていてくださいね。最近の私のキーワードになりつつあるんです。「主語が神」私を主語にしたところで大したことないんです。「私は」って何か話し始めても大した話にならない。「私は信じます。」とか立派なこと言ってもですよ、「神は私を信じさせてくださる。」とか、「神は私を愛してくださってる。」とか、神を主語にした時に真理が明らかになる。イエスって、いっつもそうでしょ。神様の話ばっかり、「天の父は、天の父は、天の父は。」「私は自分から話しているんじゃない。天の父が話していること、天の父がご自分を主語として語ったことを私も語っているんだ。」そのように、神様がなさっておられるということをミサでちゃんと味わっていただきたい。
父の抱擁、放蕩息子を思い起こしますよね。放蕩息子なんかは、父の思いなんか何もわかってないわけでしょ。抱きしめられて、わかったわけですよ。あれだって、飢えて帰ろうっていう時に、父の愛なんかわかってないですもんね。「どうせ受け入れてくれないかもしれないから、だろうから、『雇人の一人にでもしてください。』って、そう言おう。」なんて考えて帰ってくるんでしょ。あの弟ね、放蕩息子が、「私は、」って主語にした時に、たいしたこと言っていないんですよ。「私は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」とかね。「私は、」って言い出しても、本当に我々には大したことは言えない。でもそんな「お父さん、私は、」って言ってることを、あのおやじは聞いてないんですね。「お父さん、私は天に対しても、お父さんに対しても」とか言ってんのに、何も聞かないで、僕(しもべ)に「早く服持ってこい。早くサンダル持ってこい。これはおれの子だ。
指輪をはめてやれ。一番美味しい、仔牛をほふって宴会だ。」そしてぎゅっと抱き締める。そこで初めて、このバカ息子は親の愛を知るわけですよね。神がイエスを送ってくださった。そのイエスが、今日このあと、神と人を結ぶミサを実現させてくださる。そこで私たちは神の天の父のみ腕に抱かれます。ああ、もう安心。

あるいは、母の授乳ってイメージで言うなら、こうお母さんってわが身を削って、子供生かすわけでしょ。そうでなくてもへその緒で、自分の栄養与えてたわけですけれども、へその緒切れたあとでも、自分のお乳を注ぎだすわけじゃないですか。神様の命そのものを私たちは飲んでいる。そういうイメージでいいと思うんですよ。直接神の命をいただく、母の授乳なんていうのはそんなイメージ。ご聖体は神の命そのものですからね。そういう神様からの恵みを一方的にいただいて、私は今生きる者となって永遠の命に向かっている、という。もうすぐ、午後ね、今日は本当になんて言うんでしょ、神様の愛そのものを深く味わうミサを奉げたいですよね。

[ ミサ自体に力がある。秘跡自体に力がある。]
ミサが最後にあってね、こういう黙想会っていいですね。講演会っていうのは、なんかつまらないですよね。こう私、あんまり人前で話すのは好きじゃないですよ。みんな「えー。」ってよく言うんだけれども。(笑)こう緊張するしね、自分では話し得意だとは思いません。どう話していいかよくわからない。準備してもうまくいかない。その場その場で聖霊に祈りながら一所懸命話すんだけれども、ちゃんと伝えられない。いつももどかしい。だけど、ミサは違うんですよ。「キリストの体。」「アーメン。」それで全てですからね。赤ちゃんが何もわかっていないのにお乳を吸って生きていくように、本人がわかっていようと、わかっていまいと、ミサ自体に力がある。秘跡自体に力がある。だから、こういう講話をするよりもミサがいい。この祭壇の向こう側が好きなんですよ。こう祭壇の前に来るとなんだか力が出ない。この向こうにいくと、もう百人力なんですよ。「主は皆さんと共に。」そう言った時に、もうそこに救いが実現する。もう、今やっちゃいましょうか。そういう訳にいかないですよね。
どこだったか、横浜のどこかの教会に行った時、午後集まってこうやってお話をしてたんですよ。その時はどうにもこうにも、何と言うんでしょ、聖霊が、聖霊がね、来てくれないんですよ。なんかこう自分もちょっと疲れていたせいもあるんだけれど、どうにもそのお話しするパワーが段々消えていく。お聖堂(おみどう)で語っているわけですしね、で、一所懸命福音を語ってたんですけれども、その時はミサはなく、講話だけだったんですよ。だけれど、その時はこうやってお話しして、しかもお話の内容がミサ。ミサの話をしてたわけで、秘跡がどれほど素晴らしいか、今日みたいに洗礼の恵み、ご聖体の神秘、そんな話をしてて、「これやっぱりミサしません?」って言ったら、みんながわーって拍手してくれて、それで講話の後半、急きょ準備してミサしたことがあるんですよ。でもその時にみんな、その時のミサのこといつまでも忘れないって言ってくれて。なんて言うんでしょうね、こうあれこれあれこれ説明するよりもね、親がぎゅっと抱きしめた方が話が早いとかあるじゃないですか。

聖体夫婦なんかでも喧嘩するでしょ。で段々段々話せば話すほどややこしくなるっていうのはありますよね。「でもそう言うけれど、あんたもあの時、」とかわけわかんないとこまで遡ってですね、どんどんこじれていって、言われると傷つくから、こっちもなんか迎撃ミサイルみたいなのが飛んで行って、全面戦争みたいになっちゃって・・・・・。言葉って「本当にあなたを愛してます。」って宣言ひと言で済むのに、よくわかんない言葉で揉めていって。あるいはホントは「神様があなたを愛してます。」っていうこと、このひと言ちゃんと伝えられれば、すべてOKなのに、なんとか説明しようと思って、色々「こういう例がありました、今日は飛行機の上からね。」とか、そんなこと言えば言うほど、遠くなっちゃうようなことってあるんです。そんな時にミサ、秘跡、凄いですよ、やっぱり。もちろんその秘跡の意味もホントに理解しなきゃならないんですけど、夫婦喧嘩の果てに「悪かった。ごめん。俺がお前を本当に大事に思っていることをわかってくれてるだろう。」って、ぎゅっと抱きしめた。旦那、そんなことしてくれませんか?もうそれで、全て終わるわけですよね。
神様がホントにこう手を伸ばして「いいから、俺を食え!」と言わんばかりに、イエス・キリストを差し出してくれて、主イエスが「お前たちのために死のう。それでわかるだろう。」このイエスをずっと私たちは食べ続けている。「いいから黙ってこれを食え!」と言わんばかりのあのご聖体の神秘さえあれば、ちゃんとそれをいただければ…。受洗者、洗礼志願者たちにもずっとそんな話をして、みんな今や遅しと、こう競馬で馬が出発前に地面蹴っているみたいにね、「早くそのご聖体を」って言う感じになっているのは、あれはホントに見ていて、すごく初々しいというか、すがすがしいというか。皆さんも最初はそういう想いだった。それがいつの間にか、無意識のうちにパクパクパクパク食べてね。(笑)

 


 

[ あなたに話したい]

 救いの瞬間福音宣言っていうことで言うならば、私は秘跡が究極の福音宣言だと思う。神がご自分の愛をきちんと宣言してくれてるんです。ミサの前半、言葉の祭儀。ミサの後半、ご聖体の神秘。その2つで、言葉としるしで、神様はご自分の愛を過不足なく、きちんと表してくれています。カトリック教会のこの信仰ほど、今の時代に必要なものはないと私は信じて疑わない。洗礼は世界を救うとすら言いたい。なんだか相対的な世の中になっちゃってね、「何教と、何教と、何教があります。」とか、「カトリックもその一部です。」とかね。変な社会の色々な問題があって、カトリック教会もそれに対応しましょうとかね。それはある意味で真実ですよ。真実なんだけれども、本当にミサの神秘を知った者は、他のことは塵芥(ちりあくた)にすぎないと思うようになるんですよ。
「私はあなたを罪に定めない。」とそのひと言で、生まれ変わった聖女は、そのあとミサのたびに、そのひと言を食べて生きていったわけでしょ。他のことは塵芥(ちりあくた)にすぎない。他の人から「愛されている。」って言われても、そりゃ嬉しいけれど、そういうひと言だって神の愛の表れだっていう風に聖書は受け止めるわけじゃないですか。それまでは、「この人に愛されなければ、生きていけない。」とか、「この人だけが私の命よ。」とか、そんな闇を生きてたんじゃないです?けれども決して得られない、真の満足、真の喜び。そんな闇を生きてたところが、主イエスに出会って、主イエスに愛されて、もう他は何もいらなくなった。
洗礼を受けた私たちはそれをご聖体でいただき続けているわけです。これ以上の恵みはないっていうことを、僕なんかは幼児洗礼ですから、教会学校でとことん教えられたわけですよ。私よく言うんですけれども、講演会なんかでいろんな話を思いつくままにするんですけれど、話している内容は全部教会学校で習ったようなことなんですよね。「神様は私を愛してます。」とかね、「神様はやさしいお方です。」「神様はどんな罪も許してくださいます。」「イエス様は神様です。」「イエス様はごミサの中でご自分の体を私たちに渡してくださいます。」「ご聖体は神様の愛そのものです。」「ご聖体をいただいて永遠の命をいただくんです。」小学校2年生でそんなこと学びますよ。私も、それを学んで、それを信じてご聖体をいただいて。それを信じて生きてきたつもりですけれども、なんかあれから、何十年か経つと段々段々教会の中がですね、そういう素朴な話が少なくなってきているような実感が、どこか私にはあるんですよ。
最近あまり、天国の話も聞かなくなったような気がしませんか。私天国の話が大好きでですね。いずれみんなまた天国で会おうぜ!みたいな感じでね。「天国でまた、この宴会やりましょうね。」とか、よく宴会の時、そういう話するんですよ。ミサをしててもね、「今日は一期一会のミサだったけれど、やがて天国でまた天の宴、天のミサを一緒に奉げましょう。」とか、やっぱりそういう希望でね、今日一日をホントに尊い一日として生きていくわけでしょ。そういう「信仰がなければ生きていけません。」って昨日言った人がいましたけれど、私たちみんなそうであるはずなんですよ。なんかそういう素朴な話が最近教会の中で少なくなっているような気がしてしょうがない。
僕はなんかあまり勉強ができなかったので、難しい話はできませんけれども、小学生の時に習った話ならできる。それ以外する気もないというか。神様がちゃんとこの私にあの教会学校を通して、宣言してくださってた。それは固く信じて疑わないし、恵まれて来たなあって心からそう思う。ずっとそういう恵みの日々があったからこそ、神学校の途中で一旦ものすごい挫折したこともあったんですけど・・・。こう鬱みたいになってね、色々信仰が揺らいじゃってね、試練の日々がありました。20代の半ば頃。教会の言っていることが全部嘘っぱちのような気もしてきて、神も仏もあるもんか、みたいなね。なんて言うんだろう、あの絶望感。でも、良かったよ。あの絶望を味わって。ホントに感謝しますね。幼いころからずっと福音宣言を受け続けてきたわけでしょ。ずっと。やっぱりそれは耳に残っている、魂に残っている。そのずっと体にしみているようなその福音宣言が、その絶望の中で、やっぱり最後に力を発揮したんですよね。それは私の体験です。

 

[ 私は救われた]
あの絶望はだけど、皆さんが味わった絶望と同じ、本当の絶望だった。そんな簡単なものじゃなかったです。死のうと思いましたから。まあ詳しくはお話しませんけれど、色々あって、私ホント、死のうと思った。信じてきたことが全部無駄だった。この世はもう無意味だ。自分の存在になんか意味はない。そんな闇ですよ。自信持って言えますよ、地獄の底まで行きました。「ああ、これ地獄だ。」と思ったものね。本当の地獄の底に行くと、完全な闇ですから、周りに物があっても、何があっても、あってもなくても変わんないんですよ。なんて言うか、体験した人にはわかりますよね。どうでもいいんです。テレビでなんかやっていても、何の感情も沸かない。神学校に閉じこもってね。服着たまま、ずっと何日も。春休みだったので、全員帰んなきゃいけなかったんですけど、私、もう動くこと出来なかったんで、潜んでいたんですよ、神学校に。不法在位って言い方でその頃言われてた。そっと隠れて、潜んでいた。明かりもつけないでね。ばれちゃいますからね。夜そっと出て行って、冷蔵庫からなんかつまんだりして。でももちろん食欲もなくて。一番極まった2月のある日、夜遅く服着たまま、真っ暗な気持ちでベッドの上にこうやって乗っかっていたら、ついに周りに何にもなくなって、ホントに宇宙の真ん中で、完全な孤独で、真っ暗なまんまベッドだけが浮いていたんです。ホントに浮いていたわけじゃないんですよ、多分。でも、自分のイメージがそうなんです。完全なる孤独。宇宙の真ん中にベッドがあって、そこにこうやって私が寝ているんですよ。未来永劫それが続くんですよ。これが、地獄だと思った。もうどうしようも、どうする事も出来ない。だけどそんな時に、やっぱり、このずっと聞いてきたひと言がね…、ご聖体だっていっぱい食べてきたわけじゃないですか…。最悪の状況、もう生きていけないっていうその状況のなかで、たったひと言、やっぱり出てきたんですよね。ひと言っていうか、どういう言葉だったか、もう思い出せませんけど、要するに「神よ。」みたいな、叫び声ですよ。「助けてぇー。」みたいな感じ。「ママ〜」とか「パパ〜」みたいな感じ。この話、どうしてもよく思い出してしちゃうんですけれど、トラウマっていうのか、PTSDみたいなもんで、話をすると、あの時の恐怖がよみがえりそうで、戦慄するんです。でも叫びましたよ。「助けてぇー。」って叫ぶってことは、聞く相手がいるから叫ぶわけでしょ。最後の最後に残っているホントに小さな希望があるんですよ。「福音宣言を1度でも聞いた人は必ず救われる!」って、私断言できるのは、ここにある。「私はあなたを愛している。私は確かにお前の親だ。ずっと見守っている。いつも一緒だよ。天地は滅びるが、私の言葉は滅びない。私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる。」そんな言葉、小学生の頃から、ずっと私聞いてきたわけじゃないですか。最後の最後、「助けてぇー。」みたいに叫んだ時に、答えてくれましたよ。
それは、なんて言ったらいいんでしょ。言葉ならざる言葉ですけれども。あえて言葉にするならば、「私は在る。」っていう言葉でした。ちょうど神学校で、論文書いてたところだったんです。「私は在る。」って言う言葉についてね。論文書いていながらですよ、その言葉が自分に対して神が言っている言葉だっていうふうにちゃんと聞けてないわけですよ。だから絶望もするわけだけれど、ホントに響き渡りましたよ。自分の中でね、ビックバンが起こったようなものですね。神が「光在れ。」って言ったみたいに「晴佐久昌英在れ。」っていってくれたようなもんです。パッと明るくなって「私は在る。」「私は在るという者だ。」「私は在る、を信じない者は罪の闇に死んだままだ。」とイエスが言いましたけれど、モーセが神様に「あなたの名前は何ですか。」って聞いた時に、神様が答えたんですよ。面白いですよね。「私は在る。」「私は在るという者だ。」「私は在るという者がイスラエルの民に語りかけるんだ。そう伝えろ。」って、モーセに言うんですよ、神が。「私は在る。」エッヒェ・アシェル・エッヒェ(ヘブライ語)。YHWH。その「私は在る。」「私は在りて在る者である。」と言うような神様のお言葉を神聖4文字にしてね、ヘブライの民はすごく大切にしましたけれども、私にとっての本当の意味での洗礼式だったんでしょうね、あの夜が。幼児洗礼って、ほら自分の洗礼式知りませんからね。あの夜、私は洗礼を受けたんだと思う。「私は在る。」っていう方に出会って、私はそれに「信じます。」も何もあったものじゃない。ただ、ただ、「救われた。」とそう思った。すべてがちゃんとつながっていて、きちんと用意されていて、もう何も怖れることはないと。それが理屈でなくはっきりわかった。それでぼくは叙階式の時に自分でカード作ってね、絵も描いたんですけれど、そのカードに「私は在る。」って書いたんですよ。
神様はおられますよ。あたりまえの話ですよね。神はいます。「何言ってんの。」って感じですよね。でも神がおられるっていうことをホントに皆さん信じてますか。神がおられるっていうことをホントに信じたら、どんな怖れにも打ち勝つことができます。どんな罪も吹き払われます。「私は在る。」という方が、「晴佐久昌英在れ。」とそう命じた。責任は神にあるんです。私のせいじゃない。私はその神を信じます。神が福音を宣言する。そう言うは簡単ですけれども、実際にそれがどれほどすごいことか、どれ程、尊く永遠で完全なことか。それを皆さん、わかってないと思いますよ。神が「伊丹教会在れ。」と命ずる。神が「ハーン神父在れ。」と命ずる。神が「復活祭のミサが在れ。」と命じてそしてそれが実現する。ここでこうミサが奉げられている時、それは何一つ欠けたところのない完全なることなんです。


[ミサには欠けたところがない、ミサは完全]
宇宙でミサこの世界には欠けたものがいっぱいありますけれども、ミサは完全です。何一つ欠けたところがない。神のみ業(わざ)、この地球上に、そういう瞬間、そういう場所、そういう目に見える印があるということに、やっぱり興奮して、感動して、驚愕するべきですよ。信じるならばですよ、もちろん。信じるならば…。でもそれを信じている人たちが集まって奉げるミサはものすごい力を持ってます。私は、ミサは地球を救うと思いますよ。きちんとミサを奉げ続けていけば、この地球がホントに神の国に変わっていくと信じて疑わない。こうしている今もミサは奉げられているわけでしょ。地球って、時差がありますからね。24時間、どっかでは奉げられていますよ。全世界の平和のため、洗礼志願者のため、主の祈りが今ごろ唱えられているのか、み国が来ますようにと言う祈りが、唱えられているのか、こう想像してみてください。ミサをしている所がこう点のように光っているとするならね、地球が回っていくと、光っている帯がこうずうっと、移動していくわけですよ、僕のイメージ。どっか必ず光ってますよ。今頃・・・、今頃どうでしょうね。時差で言うとヨーロッパが夜明けごろですかね。早い修道院では朝のミサが、パリだかどこだかで奉げられているかも…。この地球を覆っているミサという神秘が、やがてこの地球をほんとうに輝く神の国にしていく最高の方法です。まず、そこから出発しようと、そう思っていただきたい。もちろん社会運動も大事ですよ。やりましょう。奉仕活動も大事ですよ。福祉もないがしろにしてはなりません。教会の使命はたくさんあります。全部やりましょう。だけど、ちょうどマザーテレサが朝ミサを奉げてから、暑いコルコタの街に出ていくように、ミサで私たちにとって欠けたところのない力に触れていない限り、欠けた所のばかりの世の中に出て行っても、何にもできないですよ。ミサは完全です。欠けた所がありません。週に一度でもそんな1時間、こう座ってですね、欠けたところのない完全なる神の愛に触れる、その恵みをいただけたなら、もうあとは怖いもの、何もないです。6日と23時間、矢でも鉄砲でも持ってこい。何が起こってこようとも、私はまた来週、ミサに与りますから大丈夫です。そういう思いで過ごす。カトリック信者の誇り、特権、もうミサは天、直結ですから、もうミサで天国に入っているようなものでしょう。

[ここに希望がある]
パウロの言い方で言うなら、「我が国籍は天にあり。」ですから。ミサという天のパスポートを持ってね、この世に生きている仲間たちって、そんな感じですよ。我々は、普段、日常を生きてますでしょ、日常は色々、病気のこととか、人間の争いとか、仕事のこと、勉強のこと、もう色々あって大変ですよ。民主党がどうか、自民党がどうか、経済不況がどうか、いろんな問題が山積みになっている。我々その中で、ホントにもまれもまれて生きているわけでしょ。

もまれもまれて生きているんだけれども、私たちはある意味で、そのもまれもまれている現実に、潜入している秘密結社の会員みたいなものなんですよ。ミサというパスポートを持って、胸にいつも入れているようなものですね。何があろうとも、いったん事があったら、本国が守ってくれる。パスポートってそういう物ですよね、あれ。日本のパスポートだって外務省が、その権利を、あるいはその安全を、とか何か書いてあるでしょ。我々は信仰、秘跡、ミサ、そんなパスポートを持って、つまり天のパスポートを持って、この地を生きているそういう仲間たち。ま、秘密結社はちょっと言いすぎかもしれないけれど、ま、イメージとしてはそんな感じなんですよ。この世でいろんなもめごとがあって、どうしようっていう時に、この人たちはシャッとこうね、信仰を取り出して、これで救われる。本当に困っている人に手をさしのべて、「天とつながってあなたも救われる。いいからこっちおいで。」と救うことができるわけでしょ。
クリスチャン・パスポート私の弟についこの前、久しぶりに会いました。忙しい弟でね、公立中学でずっと長く教頭やってたんですけれど、この前会ったら「兄さん、今度4月から校長になったよ。」「おお、そうか。やっと校長か。少し楽になるね。」教頭大変なんですよ。ご存知ですかね。「やあ、良かったねえ。ま、校長も校長でね、責任あるし、ええ、いざって時はこうするんだろ(最敬礼のしぐさをする)。」とそんな話をして、笑いあって、その時に私、弟に言ったんですよ。「校長、大変だろうねえ。だけど、忘れるなよ。」と、民間のね、普通の公立中学でしょ。信者の先生なんて二人といませんよ。校長がカトリック信者なんてことも、みんな知らないんじゃないですか。「でも、どんな問題が起ころうとも、どれほど大変な現場であろうとも、どうしようって思った時に、今兄さんが言ったことを絶対思い出してくれ。本当に困った時、どうしようって思った時は、信仰が答えになる。必ず答えになる。モンスターペアレンツでもめている現場とか、こんな何かこう、生徒の不祥事でね、みんなが凍りついているような現場とか、こんな所に、神だの、キリストだのって、関係ないだろうって思うとしたら、大間違い。まさに、その現場でこそ、信じるっていうこと、やってくれ。君は信者なんだから、秘跡を受けているんだから、自分に働く神の力を信じる。そこから始めてほしい。絶対それが役に立つから、それだけは覚えていてくれ。」そういう話をしました。兄貴は会うと説教なんだよなあって顔して、神妙に聞いてましたけれど。これって真実ですよ。
この世にミサで救えない現場なんか一つもない。どんな現場だって、ミサでというか、秘跡でというか、福音宣言でというか、要するに神が私たちを愛しているという、その神からあふれてくる恵みによって、救われない現場なんてこの世界にひとつもない。神からあふれてくる言葉、「私は在る。」「おまえを愛している。」こんな言葉はいっぱい聞いてきたけれど、一番無力だった瞬間に、私もその言葉がビッグバンのように響いて救われました。皆さんの中にももうその種がちゃんと植えられていますから、そのみ言葉はちゃんと皆さんの魂の世界に響いていますから、どんな闇がやって来ても大丈夫ですよ。怖れないでください。私も地獄の底まで行って、これ以上先はもうないっていうのを見てきましたから。大したもんじゃないですよね、地獄なんてね。神の愛を前にしては。
アウグスティヌスは言ったもんです。「悪とは善の欠如である。」と。神は悪をも善に用いることがお出来になる。もうほとんど出来レースみたいなもんなんです。私たち自由意思を持って、確かに罪の闇の中を生きていますけれど、お砂場で遊んでいる子供が自由に生きているようでも、お母さんがちゃんと全部与えて見守っているように、私たちはちょうどこの神という天地の創造主のみ手から逃れることなど、不可能なんですよ。そのことを本当にもしも今、闇を抱えている人がいるんであれば、今日のミサで信じて欲しいし、これからもしも、「こんな辛い現実どうしたらいいだろう。」、「こんな複雑な問題にどう対応したらいいだろう。」っていうことに遭遇した時に、この話を思い出して欲しいんですよ。福音を信じる者はあらゆる怖れに打ち勝ちます。神はもう福音を宣言しました。全宇宙に向かって。創世記の言葉でいうなら、「神は良しとされた。」ってあるじゃないですか。「全てを良しとされた。」っていう方がもうちゃんと、着々とご自分の良い業(わざ)を続けて来られてきたし、今もその途中なんだから、ちょっとこう目の前でうまくいかないからといって絶望することないですよ。周りが真っ暗闇だからといって、もうそれがこの世界の本質だなんて思う必要はさらさらない。

 


 

[ 神の国へ生まれ出る ]
鳩と福音私、ビッグバンってたとえをさっき言いましたけれども、正確にいうと自分の中で光が大爆発したというよりは、こんな感じなんですよ。光を通さない大きな黒い風船を想像してください。その中に自分がいる。それで「真っ暗だ。真っ暗だ。真っ暗だ。」って言ってるんだけれど、「助けて。」って言ったら、パンと割れた。そしたら、何のことはない、美しいガリラヤの春のような、大草原の真ん中に自分がいて、神様もイエス様も、この私をニコニコ見守ってくださっていた。実は事実としてそうなんだけども、自分はその大きな黒い風船の中にいたから、気づいていなかった。私が「助けて。」と言ったから、助けてくれたんじゃない。最初から神はそこにいて恵みは全部与えているんだけれど、私が黒い風船の中に入っていた。考えてみたら、イエス様の教えじゃないけれど、あなた方が願う前から、あなた方に必要なものはすべてご存じだっていうのが神様なんだから、その神様が「助けて。」って言われてから、「さあ、助けよう。」って言うんじゃ、あまりにも神らしくないというか、そんな神は神と呼べないじゃないですか。子供がオギャーと泣いてから「なんで泣いているの。」「オギャー、オギャー、オギャー。」「だからなんで泣いているのよ。」「ミルクだよ。」「あら、切らしてたわ、ごめんなさい。」って買いに行くようだったら、もうそれは親じゃない。親っていうものは、もう泣くだろうって最初からわかっているから、ミルクが用意してあって、温めてあって、「そろそろ泣くわよ。」ってもう分かってて、泣いたらすぐにぷってこう口に入れて、黙らせるみたいなね。
大丈夫ですよ、皆さん。悩んで辛い思いをして、確かにそれはこの世的に言えば、1月悩みました。5年心を閉ざしました。鬱が10年続いてます。長く感じるかもしれないけれども、神様の救いのプロセスは着々と行われているし、必ず神様はご自分の責任を取りますから、信じていただきたい。そのプロセスはもちろん必要なんです。産みの苦しみっていうやつですよね。束の間でも赤ちゃんだって産道くぐらなければ出ていけないから、しょうがない。でもそれは神の国に生まれ出ていくプロセスだから、闇に落ちていく穴じゃない。復活のない十字架ほどみじめなものはない。それはパウロも言っているでしょ。「復活がないんだったら、十字架ほどみじめなものはない。私たちほど哀れな存在はない。」十字架どまりならね。キリスト教は、「私は愛だ。」という神の宣言を信じる宗教ですから、あらゆる闇の向こうに、神様の恵みの世界がちゃんと用意してあることを信じて、それを信じた時もうすでに、救いが始まっている。それが「あなたの信仰があなたを救った。」というイエスの宣言なんでしょう。みなさんの魂の世界って、ちょっとのことなんですよ。信じるか、怖れるか、ホントにちょっとのことですから、そこの所を秘跡に支えられて、今日「信じます。」っていう信仰宣言をしましょうね。こうしてミサを丁寧に準備して、

それからミサを共に奉げると、今までずっと超えられなかったわだかまりがぽろぽろとほどけたり、それこそ今までずっと許せなかった人を受け入れようと思ったりします。一番難しいことでは、受け入れられなかった自分を本当に受け入れようと、そういう思いになったり。良い準備をして心からミサを奉げると、そういう恵みがいっぱいありますから、ちょっとそのことを黙想して、ミサの準備をしていきましょう。

[ 福音宣言と福音宣教 ]
「福音宣言」っていう聞きなれない言葉かも知れませんけど、これはちょっと「福音宣教しましょう、しましょう。」っていう言い方がよく言われていて、だけど普通の信者は、みんな「福音宣教ってちゃんと勉強しなきゃ出来ないんじゃないの。」って思っちゃうんですよ。宣教って言葉がちょっとハードル高そうなイメージのある言葉なんで、「それは神父様とか、シスター方がなさってくれれば、あるいはカテキスタとか、良くお勉強した熱心な信者さんがしてくれれば、私は何もよくわからない、普通の信者だから、『福音宣教しましょう。』って言われても・・・。」なんていう風に思ってる。違うんですよ。キリスト教の本質は、その福音宣教の本質は、神が「あなたを愛してる。」と言う福音宣言。それを私は受けて、それを人にも語るって言うことなので、まずはそれを受けて自分の心の中で、「神様からの宣言を信じます。」って思いがちょっとでもあった時、その信仰によってその人が変わるんですよね。その人が変わると、その人が関わる時、人との関わりも変わってくる。それによって歴史が変わってくる。それはもう年齢とか、才能とか、健康状態とか、何も関係ないんです。福音宣教っていうと、元気な人がどっかに行って、キリスト教について熱心に語るとか、そんなイメージかも知れないけど、わざわざ「宣教」を「宣言」と言い直していうのは、親が子供に「大丈夫だ、神様を信じよう。」とひと言言うとかね、そんなところに神様からの恵みの世界が開けていって、それによって世界が救われていくっていう、神の国の原点のところにある神のみ言葉の力についてのことなんです。ミサでしっかりと福音を聞いて、ご聖体をいただいて、小さな力でこの世界を神の国に変えていきましょう。ここにいる全員、それを出来るはずですし、本当にそのようにミサを大事にして、ミサから力をもらって生きると、ミサが終わったあと、帰り道でちょっとした出来事があった時に、今までだったら言わないはずなのにひと言、「今、教会からの帰りなんですよ。今日すごくいいお話を聞いて、なんだか心が温かくって。神様があなたを愛しているって話でした。あなたも愛されているんですよ。」知り合いとすれ違った時、「最近ちょっといろいろあって、悩んでるの。」なんていう人に、今までだったら「あなた、大変ね。」で終わっていたのに、ひと言あふれていくんですよね。ここにいる人たちが1年間に1度でもそのように、「福音宣言」を信じて、ひと言語れたら、来年の復活祭、ここに大勢の受洗者が並びますよ。それは神様の働きです。

福音レター

[ 祈り ]
お祈りをしてこの時間を締めくくります。父と子と聖霊のみ名によりて、アーメン。
天の父よ。私たちひとりひとりを見守ってくださっていることを心から感謝します。こうしてあなたは私たちひとりひとり、あなたの愛する神の子に、ご自分の愛、福音を語ってくださっています。あなたの愛に触れることで、あなたご自身の命に与り、あらゆる怖れと闇から、私たちを解放してください。どうか今日このあと奉げられるミサによって、あなたの愛に触れ、あなたの愛を食べ、あなたの愛と一つになって、新しい一歩を踏み出すことができますように、私たちの主、イエス・キリストによって、アーメン。父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。


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