伊丹教会黙想会第2講話

 テーマ福音宣言
お 話 :晴 佐 久 昌 英 神父
 (ハ レ サ ク マ サ ヒ デ )

 

キリストの宣言[ 午後の始めに「今は恵みの時」 ]
お食事をいただいて、ほっと一息というところで、さっきお話したように、頭に新しいことを学ぶとか、理解するとかいうことではなくて、信仰は感じること、体験ですから、今こういう1人のキリスト者の、信仰告白にも似たお話に、ある意味包まれて、安心して、神のみ言葉に生かされて生きている私、ということを体験してください。そういうひと時に私たちは支えられるし、そういうひと時を本当に必要としているはず。忙しく働いている毎日の中で、黙想の時間というのを、心待ちにしたことってありますか。もう気持ちがざわついて、いろんな問題が次々起こって、心が定まらないというか、落ち着かないというか、「ああ自分ちょっと枯れてきたな、最近、」というような気持になることないですか。黙想会は非常にありがたい。神様からの恵みの時です。それは本当に黙想という言葉が表わすように、黙って感じる時。こういう準備を大切にして、ミサに与るというのは本当に恵まれたことですよ。ちょっとおしつけがましくさっきから言ってますけれど、いつか、あの時はホントに神のみ言葉を聞いて、安心して信じる心が熱く起こってきた。あの時は恵みの時だった、ホントに幸いな体験をしてたんだ。もっと心からあの時を深く味わえば良かったと、あとで思ったりすることがありますよ。今そういう恵みの時。パウロが言うでしょ。「今は恵みの時。」さあ、明日やろうとか、昨日残念だったとか、そういう話じゃなくて、今は恵みの時。今この時を本当に、恵みの時として過ごしましょう。そのようなひと時ひと時を生きていくことが永遠の命の始まりなんです。5年計画とか人間は平気でやりますけれど、さて5年後のこと誰にもわからない。5日後だってわからない。神様のご計画の中で、私たちは出来る範囲で一所懸命生きていますけれど、全ては神様のみ旨の中にあるという信仰で、今をしっかり味わう。ミサは特にそうですよね。ミサに与っている時の安心感というものを、ホントに今日は味わって力をいただきます。もうすぐ2時からのミサですけれど、またミサの準備ということでいろいろとお話をいたしましょう。

[イスラエル巡礼]イスラエルのスケッチ
 イスラエルの話をしましょうか。私生まれて初めて聖地に行ったんです。いろんな所、巡礼したんですよ、今までね、ルルドにも何回行っただろう。サンチャゴにも行ったし、ローマ、アシジ、いろんなとこまわりました。パウロの歩いたとこなんて、トルコにまで行った。でもなぜかイスラエルには行かなかったんです。行けなかったんじゃないです。行かなかった。とっておきの場所だったんですね。簡単に言うと、「半端な気持ちじゃ行けないぞ。いいかげんな気持ちで行くとこじゃないぞ。」みたいなそんな思いがありました。わりとそういうことに、こだわるたちなんですね。だって、イエス様が歩いた道ですよ。イエス様が口を開いた山ですよ。イエス様が渡った海ですよ。ガリラヤ湖。「ガリラヤ湖なんて見たら、泣いちゃうよ。」って思ってました。ホントに見たら、泣けて泣けてしょうがなかったんですけど。ホントにあるのかなって思ったらホントにありましたよ。ガリラヤ湖。感動したね。何で行く気になったかというと、福音宣言という本出したからなんですよ。

[著書「福音宣言」のできたわけ]
今までいろいろ自分の思うところとか、感じた詩とか、エッセーなり何なり、書いたり出版したりしてきましたけれど、何かいろいろな人から、いろいろ聞かれてですね、晴佐久神学とまで言うのは、全然おこがましいけれど、自分が1番感じたこと、信じたこと、言いたいこと、それを1つにまとめなきゃなあ、という気持ちがありました。神父になりたての頃だったら、きっと書けなかったと思う。神父になっていろんな体験をして、悩んで、傷ついて、成長して、そして今、いろんな所でお話をしたりするようにまでなって、そんな時に、自分が本当に信じたこと、これだけは皆に分かち合いたいと思うこと、それを一つにまとめたいって思ったんですよ。それを是非まとめて欲しいと編集者が言ってきたということもあって、「いや、なかなか難しいですけれどね。」「じゃ、連載で!」ということで、福音宣教というとこに少しずつ書いたりしました。でもそれでも自分の中でうまくまとめきれていなかったものを、今度全面的に書き直して1冊の本にしました。自分で言うのも変ですけど、ホントに大変だったですよ。エッセーとか詩だったら、それなりにサラサラと、それでも時間はかかるんだけど、書いていけばいいんだけれど、今回出した本は、一応、神学的な内容、聖書学的な内容を含んでいますから、それなりにきちんと調べたり、間違いがないようにそれなりに勉強したりしなければならなかったわけで、それは大変でした。でも満足感はあります。ついに書き終えた。だから書いている時、「神様、これを終える時までは、お召しにならないでね。」って、ずっとそう祈ってました。私は神から福音を聞いた。その福音を信じた。その福音を必要としている人にどうしても伝えたい。それが神様のみこころそのものです。そのことを私書きましたから、もう悔いがない。一応「今日のミサ終わるまでは、神様よろしく。」って一応お祈りしておきますけれど、悔いないですね。

 



[ 神が触れる、ここが聖地]

そんな話の流れの中で、なんです。私イスラエルに行こうと思ったのは。もういいや、イスラエル巡礼に行っても。これでイエス様の所に行って、「こんな私ではあるけれども、誇りを持って聖地に参りました。」と言えるようなとこまで来たなっていう風に自分でも思いました。あそこは紛争の地ですから、なかなか行こうと思ってもいけないっていうようなこともあって、今はちょうど、わりと安全なっていう時でもありますし、旅行会社が、「是非お願いします。」ってずっと前から言われていたということもあり、この春行ってきた。普通は復活祭明けに行ったりするんですけれど、行こうと思ったからには一刻も早くって、私思ったんです。また何があるかわからないからね。現に私最後の日の前の日、イスラエルの国境を決める和平交渉みたいなやつがなかなかうまくいかないで、アラブの方の大きなデモがあって、死者こそ出なかったから日本でどう報道されたかわかりませんけど、エルサレムは緊迫して、旅行者が全然入れなくって、頭の上を戦闘機が飛んでって、なんかけっこうシリアスな状況でしたよ。その後一応今はまたおさまっているんですけれど、4月にイスラエル行くって方、さっき「私も行きます。」って方ありましたけれど、早く行った方がいいですよ。もうこのチャンス、また戦争起こったらまた何年も行けなくなるのかなってことあったので。私ちょっと忙しい中、3月にそそくさ行ってきました。
で、その聖地ですけれど、私が一番思ったこと、最初に結論だけ言っておくと、ホントに神様がイエス・キリストを通して、この世界の現実に触れたわけですよね。ベツレヘムで生まれ、ナザレで育ち、ガリラヤで語り、エルサレムで亡くなり、エマオへの道筋で復活し、どこも全部まわりました。ベツレヘム、ナザレ、ガリラヤ、エルサレム、エマオまで行きましたから。その現場ってものがあるわけです。今では街中でどこが、・・・・みたいな感じですけれど、ともかく現場があるわけです。その現場でなるほど神様がこうして世界に関わり始めたということの凄さ。それはそこだけが特別じゃないんですよ。関わり始めてからずっと、もう世界は神様が関わる世界になったんです。その最初の接点が聖地なんですよね。その後、イエスの福音が語られる所は、全世界どこでも聖地になったんです。この星は聖なる星になったんです。そのことをものすごく感じた。2000年前に確かに神様がこの歴史上の1点、地球上の1点に、特別な形で関わり始めました。でもその神様の関わりはそこで実現して終わりましたって話じゃない。それは始まったんであって、そこから地球全体がミサの光で覆われるかのように、私たちひとりひとりの心すべてに、どの時代どの民族どんな状況であっても、もうイエス様が地球にポンと触れたら、パッと色が変わる替り玉みたいに、聖地に触れてからこの世界は聖地になったんです。私、聖地ぐるっとまわって、こうやって帰って来て、これからミサをする時、まさに聖地巡礼の目的はこのミサだなってことをつくづくと今思います。

[ いざイスラエルへ ]
エルサレムに行きたいと思う方、行けないなあと思っている方、絶対に行けないという方、いろいろでしょうけれども、行ったら行ったでいいことありますけれども、行かないでも全然かまわないですよ。皆さんが聖体拝領する、その手のひら、皆さんがそのご聖体を口にするその一瞬、そこは神様がこの地球に触れた聖地、今の恵みなんです。何ら欠けたところ、減ってないんです。昔イエスの時代には信仰や恵みがこんなにあって、2000年の間にだんだん目減りして、今少しカスしか残ってないみたいに思うとしたら、大間違い。全く減ることなく、何一つ欠けるところがなく、今日私たちは聖地を生きている。あそこまで行って、なんとなくそういうイメージというか、そういうことなんだろうな、って思ってはいましたけれども、実際に聖地に行って、そのことを何よりも強く感じて帰ってきました。旅行会社は「是非もう一度、是非もう一度。」ってうるさいんだけれど、「もういいや。」って気持ちですね。
旅行会社は、私が一緒に行くって言うとですね、大勢申し込みがあるんで、今回ひどいんですよ。私そんな大勢と行くの大変だから、せいぜい20人とか25人とか、そういう話だったのに、あまりにも大勢申し込みがあったので、なんと、もう1機別の飛行機を作って、向こうで現地で合流ってツアー。これ看板に偽りありですよね。「晴佐久神父様と行く。」って書いておきながら、「晴佐久神父様の後で行く」じゃないですか。(笑)1便あとで来るわけですよ。私いつも巡礼旅行行く時、必ず成田でミサしてから行くんですけれど、成田の部屋借りて、「これは皆家族だぞ、これから一緒に巡礼行くんだぞ、これから毎日ミサをしようね。」っと。「短い時間だけれども信じる仲間で巡礼の旅を、この小さな旅に込めて、忘れられない恵みのひと時にしよう!」とミサをするんです。これ楽しみで、いつも巡礼しているのに、今回2グループになっちゃったから、ミサができなかったんです。だって半分だけミサして行くったら、あと半分可哀想じゃないですか。現地で合流したら、最初のミサ、ってことに。聖地にみんなで行くっていう事、それは素晴らしいことなんだけれども、大勢の人をまた連れて行ってもいいんだけれども、私は個人的には、もういいかなと思ってはいるんです。やっぱりミサが聖地だから。

 


 

[ ナザレにて]

山上の垂訓聖地で次々順番にミサを捧げて来て、それはホントに素晴らしい思い出になりました。みんなもとても心を打たれましたし、何よりもその場で読む聖書というのは味わい深いものがありますね。私聖書の中でも好きな箇所いっぱいありますけれども、例えばナザレの会堂っていうのがあるわけです。今そのイエスの時代のナザレの会堂がはたしてどこであるのか、おおよそわかっているのでしょうけれど、今でもシナゴーグがあるんです。ナザレにね。でも、そういう所に行って、聖書を開く。そうするとルカの福音書なんかで、1番最初のところにこう書いてあるでしょ。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものように安息日に会堂に入り、立ち上がると、聖書を渡され、開くとイザヤの預言が目に留る。そしてイエスはそこを読み始めます。「主の霊が私の上におられる。主が私に油を注いでくださった。貧しい人に福音を告げるために。捕らわれ人に解放を、目の見えない者に視力の回復を告げ、圧迫されている者を自由にし、主の恵みの時を告げるために。」イエスはそれを読み終えて、そしてラビの席というか、正面の席でしょうね、座る。会堂のみんなの目が注がれている。イエスは口を開き、話し始められた。「あなた方が聞いたこの聖書の言葉は、今あなた方が耳にした時、実現した。」
大好きな箇所なんですよ。
私もイエスが宿る者として、福音を宣言する者として、「大丈夫だよ、みんな、怖れるな、神の愛があなたを生かしている。」そういうことを私が言う時、それはイエスが語っているんだし、神が私を通して話しているんだし、だから福音なんであって、福音には力があり、福音は神の業(わざ)を実現するので、だから、イエスと同じなんです。私がこう「神はあなたを愛しているよ。」って言った時、その言葉はあなた方が耳にした時実現した。僕はそう信じて語る。ホントに実現していると。で、その実現が目に見える形で、例えばホントに信仰が育って、洗礼を受けたいと言い出したりとか、いつもうまくいかなかった2人が和解したとか、そういう奇跡のようなことがいっぱい起こるのを今まで目の当たりにしてきたから、なる程神の言葉には力がある。福音は神のみ言葉であって、人々の中に神の業(わざ)を実現するんだ。あのイエスからこっち、そのような世界が始まったんだ。なる程このナザレの会堂、ここでイエスがついにそれを宣言したかと。実際にこの聖書を持ち歩いたんですけれど、イスラエル巡礼の間も、これをこうやって読みながら、「ああここか、ああここか。」ってね。

[ 山上の垂訓教会へ]
山上の垂訓教会なんか、美しいですよ。今丁度、百花繚乱。花々が咲き乱れて、行かれた方ご存じでしょう。ガリラヤの春、美しいです。黄色い花が一番多い。その次に白い花が多い。そんな中に赤い花がぽつぽつ、ぽつぽつ。紫の花もいくつか。なんかきれいな花があったな。紫色なんだけれど花びらの先っぽの方がピンク色で、それがいっぱい茎の周りについているんですよ。ちょっと細長いような紫色の花で、先だけがピンク。あれは奇麗だったな。けっこうそれもいっぱい咲いてました。その花のことを、「四旬節第4主日」って私名付けたんです、「これなあに。」って聞かれたから。女の人って花の名前、聞くの好きですよね。「これなんて花。これなんて花。これなんて花。」ってずっとみんなで聞きまわってましたけれど。僕も聞かれて、「なんでしょうね。じゃ、私が名付けます。四旬節第4主日。」四旬節第4主日って紫色なんだけど、喜びのピンク色を使ったり、あの待降節第3主日と四旬節第4主日。ピンク色使う。紫色にピンク色がちょっとついているからね。どうでもいいんですけれど、四旬節第4主日なんて。奇麗ですよ。ホントに。うっとりするくらい。赤い花はアネモネの原種ですね。これくらいの小さい、品種改良した、あの青いアネモネはこんなでかいですけれど、原種は小さい赤い花で、ひょろっとね、ポピーみたいにひょろっとしている花で、それがぽつぽつぽつぽつ。緑の草原をずっーとみんなで歩いたんですけど、鼻歌なんかみんな歌っちゃってね、鳥がさえずって、山上の垂訓教会。おおこの辺でイエス様が説教したんだなあと。まあもちろんどこでも説教したんでしょうけれども、とりわけこの山の上での説教が、ホントにみんなの心に残ったんでしょう。だから聖書の中にもそのような記録が、残っていくわけでしょ。大勢の人がなだらかな斜面に集まって、イエス様がそこに語りかけたんでしょう。
ガイドさんは面白い方で、なんか見てきたようなことを言うんですよ。「イエス様はそこに立ってお話になりました。」みたいなことね。(笑)みんな不信心ですからね。「はいはい。」って言いながら、「そんなことはないだろう。」って思いながら聞いているんですけれど。(笑)私も「おいおい。」って思いましたけど、でもそうじゃないとも言いきれないわけですよね。まさにそこだったかもしれない。でも言われてみるとホントにこの美しい花園で、イエス様が口を開いて、「いいから空の鳥見てみろ。蒔きもせず紡ぎもしない。働きもせず、倉に納めもしない。だがあなた方の天の父はこの鳥を養ってくださる。見ろ、自由に飛び回って。こんなに小さな命だって神様養ってくださる。あなた方なら、なおさらじゃないか。見てみなさい。その足元の花。小さなこの花。明日枯れちゃうかもしれないよ、この花。でもこの花1輪の美しさに比べたら、ソロモン王の美しさなんて、ものの数でもない。明日は炉に投げ込まれるかもしれない野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなた方、なおさらのことじゃないか。信仰の薄い者たち。何食べようか、何着ようか、何飲もうか。そんなことばっかり。年金がどうした。金融危機がこうしたってそれも大変かも知れないけれど、塵芥(ちりあくた)だ。まず神様の愛が実現する神の国。神様の思い溢れる神の義。その神さまの親心。それをまず求めなさい。そうすればあとのもの、全部加えて与えてくださる。明日のことまで思い煩うことないだろう。今日一日のことで十分だ、今こんな恵まれてるんだから、明日のことは明日思い煩えばいいじゃないか、今いただいている恵みをほんとに心から感謝して、天の父の愛の中を生きよう!」ほらもう、イエスになっちゃってるでしょう。もう乗り移ってますよ。
山上の垂訓、あそこのねぇ、花園でここを読んだんですよ。マタイ福音書、美しい福音書ですよ。福音ほど美しいものはない!世界にいっぱいいろんな言葉があるけれど、これさえ求めていれば、あと何もいらない。
「求めなさい、そうすれば与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる、門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」
山上の垂訓ですよ。
「誰でも求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者は開かれる、あなたがたのうちの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに石を与えるだろうか?いないでしょ。魚を欲しがるのにヘビを与える親がいるだろうか?あなたがたは悪い親でありながらも、自分の子どもにはよいものを与えることを知っている、ましてあなたがたの天の父が、あなたがたに良いものを下さらないはずがない。」
イエスさまの周りに集まってきた大勢の人たち、つらい思いをして、生きる意味を見失い、時に病(やまい)、障害、様々なつらい人間関係を背負って、大勢の人が集まってきて、みんながそこに集まったらイエスが口を開いた。
「あなた方は幸い!」って言い切ったんだよ。これを福音宣言と私は呼ぶ。あなた方は幸い、泣いているあなた方は幸いまでいうからね、辛いから泣いているわけでしょう、悲しいから。でもその泣いている人たちに「あなたは不幸せかもしれない。でも幸いだ」言葉の遊びじゃないですよ。幸せとか不幸せとかは相対的なもので、人間が考えることだから、み

んな勝手に幸せだの不幸せだの言う。その話する時必ず思い出す、ついこの前の体験があって。あのーJALの株がね、株が紙くず同然になった。で、JALの株を旦那に内緒で買ってた人がいて、それがばれてですね、もめたんですよ。奥さん勝手にね、JALの株を買ってた。ところが、いろいろ話しているうちにわかったことは、旦那もJALの株を勝手に買ってた。(笑)おもしろいでしょう。それで二人でね、その紙くず同然になって、「おまえなんでそんな・・・」「あなたこそ自分だって」ってまあそんな話をして、で、その買った時ね、「100円だった。」って言うんですよ。その100円だったJALの株が、もう、今どうなってんですか?もう消えた。1円でもない。のかな?もう終わったのかな?100円だったJALの株が、じゃあ1円になりました。それでもう人生終わったような顔してね、絶望的で夫婦喧嘩までして、で、だけどね、100円が50円になったら、もうほんとにショックだろうけど、もし、紙くず同然である株が、50円値がつきましたって言ったら、もう喜んでさー、「神さまありがとうございます!。」とか言って、50円で売るんじゃないですか、きっと。100円が50円になったらあんなに嘆いて、0円が50円になったらこんなに喜んで、50円ていうのは同じなんですねぇ。これを、幸せ、不幸せっていうわけですよ。人間の相対性ってそういうことですよね。で、僕ら持っているものを手放したくない。持ってないものを欲する。まあそれは人間の性(さが)と言えばそれまでですけど、そんな幸せ不幸せにもまれている中で、イエス様が、「あなた方は、幸せだったり不幸せだったりするけれども、どっちにしても幸い。」って宣言したわけです。絶対的な幸い、この世の基準、この世の数値、この世の業績、そういうものに全くかかわらない、神から与えられる幸い。これは完全ですよねぇ。泣いてたって、あなた方は幸い。迫害されててもあなた方は幸い。病気であっても、どんな重荷を背負っていても、あなた方は幸い。美しいです、山上の垂訓。

 


 

[ イスラエルでの訪問者 ]
「人々から責められる時、多いに喜べ!」イスラエルの教会
イスラエルに、政府の何か援助の仕事で来ている外交の仕事なんかをしている信者がいて、私が来ると知って、僕は知らない方だったんですけど、ぜひお会いしたいってホテルにやってきた方がいて、その方が、「イスラエルですごく差別にあって、つらい思いをしてる。」と。「ユダヤ人はアラブ人を差別し、アラブ人はもっと下に東洋人をおいて差別するんだ。」と。で、トマト投げつけられたり、あの・・・、子どもが何か投げつけられたりした。そしてすごくそのことでショックを受けた。まぁもっとも、日本人だって知ると態度が変わるんだとか言ってましたけど、まあいずれにしても、その差別意識、アジア人に対する差別意識ってのが、アラブ人の中にあるんですって。へぇ〜って感じ。なに人がなに人差別しても、なんだかわけわかんないですよねぇ。色が違う、歴史が違うってだけの話で、生物学的にいったら、遺伝子は全く同じなわけでしょう。差別ってほんとに不思議ですよねぇ。でもそんな差別にあって苦しんでいる中で、「神父様にお会いできること楽しみにしていました。」って言ったから、この箇所をね、今の箇所を、お話したんですよ。
「身におぼえのないことで、あるいは悪口をあびせられる時、多いに喜びなさい、天には大きな報いがある。」山上の垂訓ですよ。
 やっぱり、イエス様がここで語ったかという所で聖書読めるってのはすごくうれしいことですし、なにか励まされる思いにもなりましたし、同時に、それ以上に、そこでない所でも、それが2000年たっても語られている。さっきさ、空の鳥見なさいって私ここで話しましたよね。2000年たって、東洋のこの極東の、日本の、伊丹で、そのことが語られている。ただ伝えられているんじゃなくて、信じている人が、信じたいと思っている人にそれを伝えている。すごいことだと思いませんかね。

[ カファルナウムにて ]
さっきの最初のイメージ、神さまが地球って美しい星に、ポンって触れたら、さっと、今2000年たっててその色が変わって、神の星になってきた、福音によって。ナザレから、山上の垂訓へ、そしてその下のガリラヤ湖のほとりへ。するとそこにカファルナウムっていう町があって、そこでルカの4章読んだんですよ。カファルナウムに行くとね、会堂が、今でもあるんですよ。イエスの時代のカファルナウムの会堂跡。その跡に建った会堂が半分くらい重なるような形で、復元されているので、イエスの時代の、礎石、その会堂のその下のレベルでちょっとこう向こう側のところなんですけど、まぁともかくイエスの時代の会堂ですから、まさにそこでイエスがね、お話をしたり、ルカの4章でいうと、悪霊を追い出しているわけでしょう。悪霊がものを言うことをお許しにならなかった。「黙れ!出て行け!」で、悪霊は出て行っちゃった。みんなこのような不思議な業(わざ)は見たことがない。あぁ、この会堂で起こったのかってねぇ、今こう遺跡を眺めながら、しみじみとつくづくとこう眺めて、で、ルカの4章でね、そこでここを読むでしょ。するとその後にですねぇ、一行は会堂を出て、シモンの家へ行きって、こう書いてあるんですよ。その会堂をこう出てですね、こう見るとシモンの家があるんですよ、そこに。あるんですよ!本当・・・のようですよ。行くまでは僕はけっこう、そういうとこ、うたぐり深いというか、素直なじゃないとこがあって、まぁそうは言ってもそういうことにしときましょってみたいな話なのかなって思ったら、そこが、あのキリストの一の弟子のシモン・ペトロのご実家で、そこをやっぱり大切にしようっていうことで、初期のキリスト者達が守ろうとして、回りにね、ちょっと塀みたいなのをつくった。そんなものまで掘り出されていて、まあ諸説あるのかもしれませんけれども、少なくともそういわれているその家がすぐそこにあって、もう50mくらいですよ。遺跡ですから見晴らしがいいでしょ。
会堂を出て、一行はシモンの家へ行きって振り向いたら、シモンの家があるとね、やっぱり臨場感というか、なるほど、イエス様が本当にこの地でね・・・。素朴に、そんなこうけれんみたっぷりでなく普通に、一所生懸命生きておられた。イエスもリアルって日々があったんだなって。それはなにげない日々に見えて、もう神さまがこの世界に関わりはじめたという決定的な恵みの時だった。だから、今でも、何気ない皆さんの現実は神さまが決定的に触れた時となっているというこの信仰が、私たちを救うわけです。
さっきそこの部屋で死海写本の本があったから、パラパラとこうめくったら、死海写本なんかをね、こうよく調べると、イエスの言動は決してユニークなものではなく、あの当時のね、なんか、それなりの人はみんな言ってることだったとか、それなりな書物には書かれていることだったとか、何一つイエスの主張で目新しいものはありませんでした、でもそんなこと知れちゃうとキリスト教は困っちゃうから、死海文書をなるべく隠そうとした。そんなようなことが書いてある本、今弁当くったあとにパラパラめくってたら書いてあって、なに言ってんだって思いましたよ。
 いいんですって普通で。だって「神は愛だ。」なんて別に新しくもなんともないわけでしょ。「人を愛しましょう。」だって、そんなこと当たり前のことじゃないですか。どこだってみんな言ってる話しですよ。神さまを愛しましょうとか人を愛イスラエルの教会2しましょうとか。だからイエスの教えは、特別にユニークだとかいう話しではなく、イエスのユニークさ、「イエス・キリストを通して神さまが直接私たちに関わってくださった。だからそれを信じた時に私たちはもう神さま直接の恵みを生きることができるんだ。」っていうその福音のユニークさなんだから、死海文書にこう書いてあったから、キリスト教は特別じゃないなんて言われたって別に痛くもかゆくもないんですよ。信じてる私がここにいるっていうこの事実が、キリスト教のユニークさなんです。2000年前ですよ。
 あのユダヤの地の、会堂に行って、聖書読みながら、「私の救いの原点がここだ!」なんて言ってる人が現実にいるわけですから、これは奇跡以外の何ものでもないし、皆さんの今日ここがやっぱり聖地なんだっていうその主張は、ほんとに理解してほしいですねぇ。

[ 無神論者のガイドさんが・・・・・ ]
ガイドさんがおもしろい人でねぇ。もうほーんとに見てきたようなことを言って、それでまた説教までするんですよ。「皆さ〜ん、今目に見えるものに目を奪われてはなりません。皆さんはすぐお土産物屋、お土産物屋って見るけれども、2000年前にここをイエス様が歩いてこられた。聖母マリア様が身重でこの道をベツレヘムへ向かわれた。頭のチャンネルを切り替えてそれをイメージしていただきたい。せっかくここまで来たんですから。それによって皆さんの信仰が育てられるんです。私は無神論者ですが。」こう言うんですよ。おもしろいなって思って。で「私は無神論者ですが。」って言いながら、「こんな私のような無神論者と皆様のような信仰深い方々と出会わせてくださった神さまはほんとにすばらしい方だと思います。」って言うんです。(笑)なんか気が合っちゃってね。私 。

ともかく最初に会った時からね、「ミサには必ず出てください。」ってこう言い続けて、「いや今まで巡礼に来た神父はガイドなんかは眼中にないみたいな顔をして、部外者だみたいな扱いだったけど、神父様は必ずミサに出てくれって言って、必ず祝福したいからって言ってくれて、すごく嬉しかった。」とか言ってくれましたけど、まぁ運命共同体ですしね。無神論者ですって言いながら、その目の奥にはやっぱり信じたいって気持ちがこうキラキラしていて、すごく気が合ってね、けっこう夜一緒に飲んだりして、楽しかったですよ。
説明もお上手でね、よく知ってて、勉強していて、色々教えられることもあった。もうそこまで言ってくれたら、ミサで説教する必要ないなっていうような話までずっとバスの中でしてくれて。まぁもっとも、「ここが誘惑の山です。あそこでイエス様が誘惑をお受けになりました。悪魔がこの石にパンになるように命じたらどうだって言った石があります。」て言うのにはびっくりしましたけどね。「そうですか。」って、ちょっと見ませんでしたけど。
えー、まあ不信心者にはねぇ、そのありがたさがわかんないのかもしれませんけど。だけど、僕、あのガイドさんにいろいろと話しながら、巡っていって、そのガイドさんはね、ん〜、一つやっぱり決定的に最初わかってなかったこと、でも最後のころはだんだんわかるようになったことがあって、それはさっき言ったことなんですよ。聖地がね、聖なる場所なんじゃない、まさにそこで神さまが触れ始めたその信仰、その救いの業(わざ)が、今現実にこの私のうちに宿っているっていう、だからこの私がホントにある意味聖地なんだっていう、そのことをミサでお話ししたり、ガイドさんとも話したりしているうちに、だんだんガイドさんのね、考えが変わっていって、ほんとにお会いできて良かったということにもなり、まあ、できればですねえ、ほんとにそういう意味での信仰をね、これからも訪れる人に語ってもらいたいなぁと思ったんですよ。最初のうちは、ここでそれを思い起こしてくれ、ここに来たのはほんとにそれに触れるためだっていう、その場所が尊いっていうようなことを強調してたんだけど、私はそこから始まった信仰が今もね、ひとりひとりの中に生きている、そこが聖地だっていう、その意味では、聖地ガイドとして、場所のガイドじゃなくて、ほんとにひとりひとりの信仰をね、ガイドするところまで、そういう力を持っている人ですから、なってほしかった。で、もう重点的にガイド向けのね、説教を私ずっとしてたんですよねー。最後のころにはガイドさん、「いやーもう神父さん、私、神父さんのファンになりました。神父さんが何考えてるかもうわかります。神父とは私テレパシーで話せます。」って言い出してね、なんか話しててまた会いたくなってきちゃったなぁ・・・。ほんとおもしろい人だった。

 


 

[ 同行したもう1人の神父様 ] 

五つのパンと2匹の魚いろ〜んな聖地をこうずーっと見てまわる中で、何よりも私が忘れられないのは、「五つのパンと二匹の魚(さかな)教会」のことなんですよ。私行く時にいつも、ひとりで行くのがちょっとつまんないというか、誰か連れていくんですよね。
 一人部屋だと夜、退屈じゃないですか。
だから友達を連れていくんですよ。旅行会社にツーフリーにしてって頼んで、誰か連れてっちゃう。で今回、最近ちょっと親しくなった若手の司祭、叙階式3年目。その神父を、何かこう僕、励ましたいなぁと思ったんですよ。で、イスラエル一緒に行こうよって、去年の司祭研修会の時に誘ったのかな?最初はね、すごく遠慮してたんで、「晴佐久神父様と行くなんてツアーに、自分なんかが行っても邪魔なんじゃないか。」とかね、「そんな自分だけがね、いい思いして申し訳ないんじゃないか。」とか、まっ、ともかく、そういう遠慮するような思いがすごくあって、だけど、いや君が一緒に来てくれることがメンバーにとっても本当にね、糧になるから。必ず神さまが用いてくださるから。だいじょうぶだよ、一緒に行こうよって誘って、最後は、OKしてくれて、一緒に行ったんですよ。叙階式から3年目です。
ちなみに東京教区でも先々週、叙階式がありまして、これが3年ぶりなんですよね。ですから先々週の叙階式の前の叙階式に叙階した神父です。私その3年目の司祭を励ましたいっていうのは、司祭になってやっぱり3年くらいたったころって、一つの試練というか、ある種の山場というか、あるわけですよ。意気揚々とね、司祭職始めたはいいけれども、やっぱり現実の様々な壁にぶつかるでしょ。
自分の限界を知るし、様々な無力感を味わうし、あるいは教会の中のね、思ってもみなかったいやな出来事とか、あるいは、仲間である司祭とのね、対立であるとか、なんかこうイメージしていた教会の現場と違って、すごくドロドロした、ある意味救いのないような現実っていうものにぶつかるじゃないですか。もちろん、そんなことがあるとは当然わかってはいただろうけど、ただ想像していたのと現実はやっぱり違うから、それにぶつかった時に、力が、神さまに直接触れるような力が必要ですよ。叙階の秘蹟がそういう秘蹟なんだけれども、そのあと仲間も必要ですし、いい機会になるかなと思って強くお誘いしたんです。何かこう、励ましたいような気持ちもあって。その2週間前の叙階式だってね、私のすごく親しい、明らかに私の影響も受けている神学生が、3人の叙階の中に2人いたんですよ。どっちも私は、彼らが神学校に入るなんて夢にも思わなかったころから親しかった。この叙階式で、新司祭3人とも同じ挨拶してましたよ。「自分のような弱い人間が、本当に神の恵みとみんなの祈りに支えられて司祭になることができました。」「本当に自分は足りないところの多い、小さな存在だけれども、神さまの恵みによって司祭職を生きていきたい。」それはそれで謙遜でいい挨拶だと思うし、そういうのが当然だと思いますけれども、でも私それを聞きながらね、ふと思ってたんですよ。でも、これからほんとに司祭を生きていくと、その無力感、その挫折、思うようにいかないこと、誤解されること、対立すること、失うこと、そういうことが日常としてやってくる。

それを1年2年3年と重ねていくうちに、やっぱりそれ体験してないで言ってるのと、体験してから、それを言うのは意味が違ってくるわけで、「だけど、本当にその完全に無力な状態というものを司祭として味わった時に、その時にほんとに恵み、恩寵をね、生きることができるんだよ。その思いを忘れないようにね。」って、やっぱり心の中で、まあその初々しい思いを自分の叙階式のことを思いお越しながら、まぁたかが20数年先輩なだけですけど、そこはやっぱり思うわけですよ。だから、その3年目の司祭を連れて行った時も、これから彼は今度任地も変わるんでね、ちょうど3年、助任が終わって、何かいいきっかけになってほしいなぁというのもあって。で、ですね、この司祭とも、まぁずっとまわったんですけど、一応晴佐久神父様と行くっていう以上、ごミサはね、私が捧げないと文句言われそうですから、どこでも聖書を読み、講話をし、ホテルでは毎朝朝礼をしたんですよ。30分。ロビーに全員、時間に集まってもらってですね、この旅の意味であるとか、昨日の出来事であるとか、今日の訪れる所の話とか、全部こうやって、みんな、晴佐久神父様と行く巡礼ツアーってものを一緒にやってるわけです。でもね、一緒に同僚司祭っていうか、若い司祭も一緒にいるわけで、だから、いっつもミサは主司式は私がし、説教してきたけれども、さすがに4日くらいたつとですねぇ、やっぱりこの神父様にも、1度はミサをしてもらいたいって、私としては思ったんですよ。で、ちょうど中日に移動日があって、いよいよガリラヤからエルサレムに向かうことになっていました。ところがむこうで死海に行ったり、クムランに行ったりしなきゃなんないんで、忙しいので、この日だけはミサを入れる予定がありませんって、最初旅行会社が言ってたんです。でも私、文句言ったんです。毎日ミサするって約束で作ったツアーじゃないですか、別にその〜、クムランだかマサラだか別に穴見なくてもいいから、ミサはしましょうって言ったら、そうですかぁって言って、結局その時間裂いて、ミサをしてからエルサレムに向かったんですよ。


[ 五つのパンと二匹の魚(さかな)教会にて ]

でそのイレギュラーで入ったのが、「五つのパンと二匹の魚教会」。そこを予約してくれて、急遽そこでミサをした。「イレギュラーなミサだから、これはぜひ神父さん、あなたがやってください。」と前日たのんだ。そうしたら彼は断った。「いいやとてもできない。今までね、こうしてずっと巡礼をいっしょにまわってきて、すばらしいお話、感動している皆さん。
とても私がね、そこで、この教会でね、5つのパンと2匹の魚の話をする。それはもう私にはハードル高すぎる。もうやめてください。勘弁してください。」でも僕は、「それは、それはないよ。」と、「是非やって欲しい。きっと神さまから大きな恵みをもらえる。みんなも喜んでくれる。あなた自身にとってもすばらしい経験になるから、是非やって欲しい。」でも、「いやできません。」でもね、翌朝になったら、朝になったら、「引き受けさせていただきます。」って、こう神妙に言うんですよ。考えたんですよね、1晩考えてた。

まあ若い司祭ですけど。で、教会に行ってみたら、聖堂の方は使ってて、こちらしかあいてませんていう。そのこちらしかの方がすごく良かったんです。こうずーっとガリラヤ湖に、降りていく小道があって、それでその小道の先にほんとにきれいな、野外聖堂があるんですよ。祭壇がこうあって、その後ろがガリラヤ湖で、この扇状にね、こう斜めになった遺跡があって、その上に日よけがきれいにかかってて、すごく風光明媚な、い〜い感じの所。あ〜こんな所でごミサができるの、ホント嬉しいなって思った。
鳥の声が聞こえてね。で、その神父様がね、もう感動してるんですよ。そして自分がミサが出来るってことをほんとにもう喜んでてね。5つのパンと2匹の魚の話を読んでる時に、もう目が赤いんですよ、神父様。あー感動してるんだなぁ。
で、説教始まったらですね、もう声にならないんですよね。で、彼こう言ったんです。ひとことだけ。
「自分は、ほんとに足りない人間で、いっつもうまくできなくって、恐れていて、逃げていて、でも今日、引き受けてミサができた。すごくうれしい。自分は、いつも5つのパンと2匹の魚しかない。そういう自分の足りなさを見ていた。足りなさに目を奪われていた。」こういう言い方をしましたよ。
「足りなさに目を奪われていた。けれど今、・・・・・・。」って言ったきりもうしゃべれないんですよ。感動して、涙こぼしてですね、もう声にならない。
「自分は2匹の魚と5つのパンしかない。
その自分の足りなさに目を奪われていた。けれど今、・・・・・・。」って言ったきり黙っちゃった。
 みんなじーっと神父様の顔を見て、ある人は涙こぼして目を伏せて、私もじっと目をつむりながら聞いてたんだけど、こらえきれずにね、はらはら涙こぼれてきましたよ。だって「けれど今、・・・・・・。」のあと何言いたいかなんてわかってるわけじゃないですか。もうみんなの心にも響いているわけですよね。「けれど今、・・・・・・。」のその先が。だから、あれは美しい沈黙だった。しーんとしてね、風のそよそよいう音とね、鳥がこうピピピピって鳴いてる音だけがして、みんな黙〜って、沈黙。1分、2分、「私は自分の足りなさ、ばかり、そこに目を奪われていた、けれど今、・・・・・・。」そこで行われていること、そこで働いている神、それは美しい瞬間でね、あの〜、みんな後々、「あれはいいミサだった。」「あの時ほんとに心に響いた。」「神さまが、ひとりの司祭を通して働いているのがよくわかった。」あんまりみんなそのこと言うものだから、だんだん私が・・・いや別にすねたりしませんよ。(笑)あのミサはよかったってみんなが言って、私もそう思う。あのミサを一つお願いしてほんとに心からよかったと思う。イエス様が、あの聖地で言ったこと、なさったこと、それは十字架にいたるまで、全てが今も私たちを生かしてるんです。これは事実です。その事実の壮大な歴史、これが教会の歴史でもあり、その事実が今に輝いているのが現在の、たとえばこの黙想会もその実りなわけです。

[ イエス様の業(わざ)が溢れる ]
神の業イエス様が、5つのパンと2匹の魚をわけて、みんなはお腹いっぱいになりました。それがどういう出来事なのか、パンがモコモコ増えたわけじゃないだろうなぁとか、中にはみんなが持ち寄ったものを出し合ったからみんなお腹いっぱいになったんだとか、いろいろ合理的にね、説明しようとする動きもあって、それも別に悪くはないんだけれども、合理的に説明する意味がないんですよ、これ。「もうこれでは足りないでしょう。もう無理でしょう。」って人が言う。「それを持ってきなさい。」と神が言う。そうしてみんなが満足する。これがリアルなんです。
今も現実に起きていること。3年間の間にいろいろうまくいかないこと、つらいこともあって、自分は足りない神父だと思っていたひとりの若い司祭。「あーそれも無理です。」とか、「できません。」とか、いろんな思いを持ってたのかもしれない。けれども、けれど今、彼の中に2000年間を飛び越して、イエス様の業(わざ)が、働きが、もう溢れてるわけでしょ。
全てのミサがそのようなミサであるはずですし、私たちはその現場に居合わせる証人なんです。キリスト教は、「神の業(わざ)の証人となる。」、これがキリスト教の本質ですから、福音を宣言するっていう時には神が愛を語り、神の愛による業(わざ)を語りということです。私が今この若手司祭のエピソードを話したのも、証言してるわけですよね。「確かに神さまの働きが実現しましたよ。」って証人なんですよ。もうこの目で見、この耳で聞いたことだから。ミサっていうのは、そのような救いの現実を今も確かに目に見える形で、耳で聞こえる言葉で、証しし続けていく、それがこのミサです。

 


 

[ 皆さん遠慮しないで前に座って ]
あのーよく、ミサにあずかりに来た方が後ろから座っていくってのがありますよね。あれなんでなんですかね。「私のような罪深い者は、前に行く資格がない。」って思うんでしょうかね。「一刻も早く外に出たい!」「火事になったら逃げ出せる!」って思ってるんですかね。なんでみんな後ろから座るんでしょうかね。おもしろいですよね。遠慮してるのか、目立ちたくないのか。だけどね、さっきから言ってるように、このミサの尊さ、ありがたさ、再洗礼とでもいうようなこのミサの本質を知ってたら、まさに洗礼式の時に一番前に座って、そしてこの祭壇の前で洗礼を受けて、復活のろうそくに皆さんの闇が照らされた、そんな再現なんだから。洗礼を受けた人は1cmでも祭壇近くに行きたいと、そう思ってほしいですよねぇ。祭壇を熱い思いで信者が囲む時、司祭の思いも変わるんですよ。ほんとですよ。いい説教聞きたかったら、前につめかけてください。信者が後ろのほーうに座ってるとですね、「なぁんだ、聞きたくないのか。」と、なんとなぁく、こう、ねぇ、一所懸命話したいんだけれども、砂に染み入る水のように消えてっちゃうような、でも神父様のね、一言、輝くご聖体のね、1cmでも近く、大切にしたいと思ったら、やーっぱりこのね、前の方からつめかけて、今やおそしと祈りのうちにミサを待つ。

遅れて来る人とかね、あのーおもしろいですね。遅れてくる人っていうのは、必ず同じ時間に来ますね。(笑)不思議ですね、あれね。なにかー、それがバスの時間なのか、あるいは朝出てくるタイミングのことなのか、同じですよ。ちょうど答唱詩編終わった時に入ってくる人は、翌週も答唱詩編終わった時に入ってくるんですよ。あれはなんなんですかねぇ。まあいろいろご事情はあるかとは思いますけれども、それこそよく言われるように自分の結婚式に遅れる人はいないってねぇ。自分の洗礼式に遅れる人はいないってねぇ。自分の聖体拝領に、尊いミサに、「これさえあればもう他になにもいりません。」っていうような、「あとのことは塵芥(ちりあくた)です。」っていうようなそんな思いでつめかけて、顔輝やかせて、「今やおそし。」とミサを待つ。大切なことですよ。私は毎日最前列でしたから、言う資格あると思いますよ、子どものころ。毎日でした。私の両親、毎朝ミサに、最前列に家族みんな並ぶんですよ。やがては待者になったらね、こんどはこっち側、もう祭壇の一番近く。今でも祭壇に近づけば近づくほど安心するんです。これ、祭壇から離れれば離れるほど力がなくなってくる、ほんとですよ。この聖なる祭壇にみんなが近づいて、この聖なる祭壇の神秘に私たちが与る時、この地球は、どんどんどんどん救われていくんです。ここからホントに力が溢れていって、あらゆる活動、奉仕、犠牲に意味と祈りが生まれるんです。

[ カトリックのミサとプロテスタントの聖餐式 ]
ミサを抜いては何にもない。事実ですけれど、聖餐論争(せいさんろんそう)っていうのが起こっててね。別に信者じゃなくてもね、パンをわけていいんじゃないのとか、初めて来た人にもどうぞってパンをわけるべきなんじゃないか、それがイエス・キリストがね、全ての人にご自分をみたいな、そんな議論なんですけど、このご聖体の神秘を少しでもね、知った者はそんないい加減なこと、口が裂けても言えないはずなんですよ。まぁ、どっちがどっちーって言うの、この世的には相対的ですから、いろんな議論はあっていいんですけれども。私はね、ご聖体に生かされて、ご聖体に奉仕してきた者として、はっきり言えるけれども、ここが全ての中心、頂点で、ここをいい加減にしたら、あと全部バラバラ。
いつかプロテスタントの青年大会に招かれて、楽しみにして行ったんですよ。まだ私は若手司祭で、そういう所に出たことなかったし。で、最終日に聖餐式(せいさんしき)があるので、聖餐式ってどんなのだろうな?ってワクワクするじゃないですか。どんなパンなんだろう?とか、どんな儀式なんだろう?とか、まぁいずれにしても、カトリックの青年大会なんかでも最終日のミサで盛り上がってねぇ、思わず泣いちゃったりとか、みんなで一致のしるしでパンを囲んでっていうそのイメージがあるから。それに私、ワールドユースデーとか大好きでね。教皇様囲んで、何十万人って青年が一緒に聖体拝領するとか、まあそういうイメージがあったから、ホントに楽しみにして、超教派でね。カトリックの信者はプロテスタントの聖餐式でも与れますからね。だからもうそれを楽しみにしていたんですが、なんか大会アピールってのをね、採択するだんになって、ちょっと時間がおしたんですよ。で、その大会アピールがついに採択、発表されて、予定ではそのあと聖餐式なわけで。で、準備が始まるのかと思ったら、司会者が一言、「えー、大会アピールの採択が長引きましたので、聖餐式は割愛いたします。」って言ったんですよ。ほんとにびっくりした。いい悪いは別にして、そういうものかって思いました。
ねぇ、ワールドユースデーで、大会アピールが長引いたからミサは割愛しますって言ったら、暴動がおきますよね、青年達の。カトリック教会が、この聖体を頂点とする尊い、再洗礼のようなミサを2000年間、本当に守ってきて、今もそれに生かされているというその事実に、私たちは胸を熱くしますし、「ひとりでも多くの人を、このミサに招きましょう!」とこれが福音宣言の最終目標です。「ひとりでも多くの人。」このなんていうかな、相対的なエキュメニカルな時代にね、もっとお互いに理解しあいましょうとか、お互いの儀式も大切にしてとかいろいろ、何でもやったらいいんだけど、まずは、このミサにひとりでも多くの人を招きましょうということを、本気でやった上での話だと思うんですよ。

 


キリストの平和
[ 日本人に洗礼の恵みを ]
 私、前の教会、高円寺教会は6年でしたけれども、そのうち半年はサバティカルでいなかった。5年半でしたけれども、この6年間の間に、高円寺教会の受洗者は541名、541名ですよ。まぁ幼児洗礼も含めてですけれども。これ教会一つじゃないですか。決して多い数だと思いませんよ。
 ペトロが、「イエスが主です。イエスは復活なさったんです。信じるものは誰でも、世界中どんな人でもみんな救われるんです。」その説教聞いたら、その日3000人が仲間に加わった。聖書にそう書いてある。
 私がそういうことを言うと、よくね、「神父様は古いタイプの神父だね。」って言われるんですけど、もう誇りに思いますよ。カトリック教会は古いんです。2000年やってるんです、それを。これから2000年たっても、言うこと変わってないですよ、言っときますけど。「神父さんは洗礼、洗礼っていうけれども、もうちょっと時代遅れなんじゃないの。」と。「今、教会が求めているのは数ではなく質ですよ。」とか、なんかそんなことを言う人もいる。私はそれはおかしいと思う。パリやローマで言うなら話は別だけど、我が日本国、カトリック信者、0.4%ですよ。プロテスタントと合わせても1%ですよ。99%の人が洗礼を受けていない国でね、数じゃない質だっていうのは、
どーうひいきめに聞いても負け犬の遠吠えですよね。そう思いませんか? 99 %洗礼を受けてない国で、「いや洗礼は数じゃない、まず質だ。」それ、なんか洗礼を受けている人たちに失礼ですよね。まずね、質悪いって言ってるようなもんですからね。私、洗礼の秘蹟は完全だって信じてますよ。

[ 怖れずに宣言しましょう、福音を ]
教会から離れていた人、50年ぶりの人に聖体拝領したこともあるくらいでね。でも神さまがほんとにすばらしい恵みくださって、教会に戻ってきたんですよ。「聖体拝領50年ぶりです。」っていう人にね、ご聖体を差し上げるのは本当に感動的でしたよ。でもそれは神の業(わざ)なんであって、どんなに質が悪いとかなんとかいったところでもう秘蹟は完全で、一生に1度でもいいからご聖体を拝領してほしい、それは熱い思いがあるわけですよ。「そうは言っても、うちの旦那だけは無理よ。」とかってみんな言うんだけれども、死ぬまでに食べさせましょうよ。ご聖体を。まぁ最もそのままね、召されても神の国でね、ご聖体いただけると私は信じますけれども。福音宣言、きちんと神の愛を、神の業(わざ)を、神の恵みを、語ってください。誘ってください。
働くのはあなたではありません。神さまです。神がその人に出会わせて、神があなたの口を開き、神がご自分の言葉を語って、神がその業(わざ)をその人に実現させる。
私たちはその「道」にすぎないんですよね。
イエスが「道」だと言ったように。この私というキリスト者を通して、福音に触れる人が一人でもいるなら、もうそれで死ぬに死ねるというような思いになれる。キリスト者であるということの、その誇りをもって、この伊丹教会、あるいは伊丹以外の方もおられるようですけれども、この地に、福音の花を咲かせていただきたい。少しでも実りがあれば、もっとやる気になりますよ。どこの教会でも私が体験すること。最初はちょっと半信半疑なんですけど、実際に何10人もね、受洗者が並ぶとみんなやる気になるんですよね。「よし!私もあの人を誘おう。」とか、「そうだ、もう1本電話してみよう。」とか。ちょっとこうーみなさんを励ましてですね、本当に神さまの恵みに心を開いていただいてですね、まぁ今年の復活祭はもうちょっと間に合いそうにないので、来年の復活祭に向けて。だってすごいじゃないですか。自分がこうー語った、関わった、招いた、その人が復活のろうそくの下で涙流して洗礼式っていう。すごいことだと思いませんか?誰でもできることですよ。ここに100人いて、その100人が来年までにひとりでもいい、受洗者を導いたら、来年ここに100人並ぶわけですよね。
その100人がもうひとり招いたら、その次の年もまた100人。そうやって、でも、カトリック教会は11億5000万人にもなったわけでしょう。日本はいいですよ。これからだから。ねぇ、ハーン神父さん、いい国に来ましたね。ほんとにここではもう、みーんな福音をまだ知らない人達なんだもの。語って口を開いて、「ほんとに神さま、あなたを望んで生んだんです。」「愛して育てたんです。」「今日こうして神さまが語りかけてるんです。もう大丈夫です。」って言ったら、もうその人は言うわけですよ。
「なんだ、早く言ってよ。」と。
「今までこんなに苦しんで、こんなに求めて、誰も教えてくれなかった。ありがとう。あなたに会えてよかった。」
 いっぱいいますよ。私こんな話して、ほんというとこの人達に聞かせるよりも、あのマンションの人、こっちの屋根の人。だってもういるんですもん、うつで苦しんでる人、生きる意味を見失った人。もう一杯いますよ。前の道歩いてるかもしれない。でもそれは皆さんの仕事です。
 一言、福音を語れば、神さまがご自分の業(わざ)を実現してくださいます。

 これからミサを捧げますけれども、そのミサにおいて、神さまの恵みにしっかりと与って、出発いたしましょう。来年の伊丹教会の受洗者数を報告していただきたいところですけれども、荘司さん、よろしくお願いいたします。あなたは1人ノルマを果たしてくださいね。ミサがありますのでまとめのお祈りはいたしませんけれども、思いつくままの話で申し訳ない。ただ、皆さんに、今ここで神さまが働いているという恵みを、奉仕させていただきました。どうもありがとうございました。(拍手)

神に感謝

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